「時に農林大臣、桑名のシジミはどうなった?」
昭和34年、伊勢湾台風の被害状況の視察を終えて上奏するために皇居へ参内した福田赳夫農林大臣(当時)に昭和天皇はこうご質問をされた。
「桑名といえば蛤ではないか」と思った福田赳夫であったが、「シジミのことは、追ってご報告いたします」と答えた。
帰ってから調べてみると、蛤の産地とばかり思い込んでいた三重県桑名では蛤がまったく獲れず、蛤の産地は松島であることがわかった。そして桑名はシジミの一大産地だったのである。
昭和天皇が崩御されてから17年の歳月が流れた。
この間、陛下の人となりを紹介した書籍が数多く出版されてきたが、本書もその一冊である。
本書はその中でも、陛下が側近や時の閣僚たちにお話になった、とりわけ鍵となるお言葉と、それにかかわる人々の証言を集めた証言集である。
ほとんどが戦後のお言葉で占められているのであるが、天皇と政治の関わり方の微妙なニュアンスを表現している、内容は濃いが、軽い気持ちで読むことのできる一冊である。
シジミの一件は、本書の前半で紹介されているお言葉のなかでもとりわけ印象に残ったエピソードだった。
福田農林大臣は陛下にちょっとからかわれたわけではあるが、これは一般の人が普通知らないことでも昭和天皇は国のことを良くご存じで、国民の生活およびその保護と向上に極めて高い関心を示されていた証の一つだと思った。
私たちがテレビや新聞を通して接していた昭和天皇のお姿は、実際のそれとかなりかけ離れていたものであったことが窺える。
「あ、そう」「うん、そう」
などに見られた簡潔過ぎるほどの相槌の言葉は、相手に対する心遣いの表れであった。
もし普通の人のように好悪の別をはっきりとされたり、政策上の注文になるような言葉をお話しになると、その社会的、政治的影響の途方もない大きさになる。これらはその影響を熟慮された上での、工夫に工夫をかさねられた陛下独特の話し方だったのだと思えるのだ。
その証拠に、陛下はキッパリとものを述べられる方であったことが紹介されていた。それは元共産党委員長の田中正弦が拝謁を賜ったときのお言葉である。
この時、田中は大胆にも陛下に対し「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらした。どうしてあれをお止めにならなかったのですか」と問うた。
これに対し、陛下は、
「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。(明治)憲法の規定もそうだ。」とおっしゃった。
実に英明な方であったのだった。
現在の日本の繁栄は昭和天皇と国民が敗戦の瓦礫のなかから手を携えて作り上げてきたものだと言われることが少なくない。
昭和天皇が崩御したとき、テレビで街頭インタビューを受けた一人の女子高生は「自分のおじいちゃんが死んだみたいに悲しいです」と語っていた。
この一言こそ、天皇と国民の関係を位置づけていた言葉だろう。
昭和天皇の危篤の報が流れ出したころ、世の中はバブルに浮かれ、平成の世になり、やがてはじけた。
まるで今の日本人は、眼光鋭かった一家の父親が病気になって寝込み、やがて亡くなると、自分の意のままだと思い込み財産を使い果たして破産する放蕩息子に似ていないだろうか。
本書を読んで、一個の「人間」としての天皇像が浮かび上がって来るとともに、皇室と国民の本当のありかたを改めて考えさせられたのであった。
そして、本書から先の大戦の終戦の聖断を下された時、陛下はまだ44歳であられたことを初めて知った。
現皇太子殿下は45歳。
これから30年先、40年先、私たちはどういう国を建設していくことができるのだろうか。
しっかりと熟慮していかなければならないと思ったのだった。
~「陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治」岩見隆夫著 文春文庫~
昭和34年、伊勢湾台風の被害状況の視察を終えて上奏するために皇居へ参内した福田赳夫農林大臣(当時)に昭和天皇はこうご質問をされた。
「桑名といえば蛤ではないか」と思った福田赳夫であったが、「シジミのことは、追ってご報告いたします」と答えた。
帰ってから調べてみると、蛤の産地とばかり思い込んでいた三重県桑名では蛤がまったく獲れず、蛤の産地は松島であることがわかった。そして桑名はシジミの一大産地だったのである。
昭和天皇が崩御されてから17年の歳月が流れた。
この間、陛下の人となりを紹介した書籍が数多く出版されてきたが、本書もその一冊である。
本書はその中でも、陛下が側近や時の閣僚たちにお話になった、とりわけ鍵となるお言葉と、それにかかわる人々の証言を集めた証言集である。
ほとんどが戦後のお言葉で占められているのであるが、天皇と政治の関わり方の微妙なニュアンスを表現している、内容は濃いが、軽い気持ちで読むことのできる一冊である。
シジミの一件は、本書の前半で紹介されているお言葉のなかでもとりわけ印象に残ったエピソードだった。
福田農林大臣は陛下にちょっとからかわれたわけではあるが、これは一般の人が普通知らないことでも昭和天皇は国のことを良くご存じで、国民の生活およびその保護と向上に極めて高い関心を示されていた証の一つだと思った。
私たちがテレビや新聞を通して接していた昭和天皇のお姿は、実際のそれとかなりかけ離れていたものであったことが窺える。
「あ、そう」「うん、そう」
などに見られた簡潔過ぎるほどの相槌の言葉は、相手に対する心遣いの表れであった。
もし普通の人のように好悪の別をはっきりとされたり、政策上の注文になるような言葉をお話しになると、その社会的、政治的影響の途方もない大きさになる。これらはその影響を熟慮された上での、工夫に工夫をかさねられた陛下独特の話し方だったのだと思えるのだ。
その証拠に、陛下はキッパリとものを述べられる方であったことが紹介されていた。それは元共産党委員長の田中正弦が拝謁を賜ったときのお言葉である。
この時、田中は大胆にも陛下に対し「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらした。どうしてあれをお止めにならなかったのですか」と問うた。
これに対し、陛下は、
「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。(明治)憲法の規定もそうだ。」とおっしゃった。
実に英明な方であったのだった。
現在の日本の繁栄は昭和天皇と国民が敗戦の瓦礫のなかから手を携えて作り上げてきたものだと言われることが少なくない。
昭和天皇が崩御したとき、テレビで街頭インタビューを受けた一人の女子高生は「自分のおじいちゃんが死んだみたいに悲しいです」と語っていた。
この一言こそ、天皇と国民の関係を位置づけていた言葉だろう。
昭和天皇の危篤の報が流れ出したころ、世の中はバブルに浮かれ、平成の世になり、やがてはじけた。
まるで今の日本人は、眼光鋭かった一家の父親が病気になって寝込み、やがて亡くなると、自分の意のままだと思い込み財産を使い果たして破産する放蕩息子に似ていないだろうか。
本書を読んで、一個の「人間」としての天皇像が浮かび上がって来るとともに、皇室と国民の本当のありかたを改めて考えさせられたのであった。
そして、本書から先の大戦の終戦の聖断を下された時、陛下はまだ44歳であられたことを初めて知った。
現皇太子殿下は45歳。
これから30年先、40年先、私たちはどういう国を建設していくことができるのだろうか。
しっかりと熟慮していかなければならないと思ったのだった。
~「陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治」岩見隆夫著 文春文庫~