人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

園子温監督映画「希望の国」を観る~マーラー「第10交響曲・アダージョ」の流れる中で

2012年10月22日 06時59分03秒 | 日記

22日(月).昨日の日経朝刊・文化欄に作曲家の池辺晋一郎さんが「日本人と”声”」というテーマでエッセイを書いています ごく短く要約すると,

「諸外国の人は声が大きい.とりわけ中国人は大きい.それに比べて日本人は声が小さい 一方,ドイツのホテルで食事をしたとき,あまりの料理の多さに閉口した.ところで,オペラで歌を歌うには100人近いオーケストラの音を超えて客席に声を届けなければならない.昔はいざ知らず,今やヨーロッパの有名なオペラ劇場で活躍する日本人歌手が次々に現われている この背景には,日本人の食生活の変化が有るのかも知れない.”声”は人間の行動に大きな作用をもたらすのだ.声は身体のすみずみの動きと,また精神と,大きな関わりを持っている 食生活が変化しつつある日本人の声も,どんどん変わっていくだろう.声を出すことが健康に好影響をもたらすことは間違いない

諸外国の人は声が大きいという点については,個人差があるように思いますが,大量に飲み且つ食べることについては,まったく異論はありません 20数年前に仕事でドイツに行ったとき,現地人がビールのジョッキを何倍もお代わりし,大量の肉料理を平らげていたのを思い出します.南ドイツ新聞社の印刷工場を見学した時,廊下にビールの自動販売機が置かれていたのにはびっくりしたものです 「印刷工場にビールの自動販売機なんか置いていて,事故が起こったら労災問題で雇用者責任が問われかねないよね」と日本人訪問団は顔を見合わせたものです

池辺さんのご指摘のとおり,食生活の変化に伴って日本人歌手の海外進出がもっと進むのかもしれません 歌手はそれで良いのですが,時々コンサート会場で,今にも演奏が始まろうとする直前までペチャクチャしゃべりまくっている高年おばさんは何とかなりませんでしょうかねぇ・・・・いや,決して声が大きいわけではないのですが,周りが静かなので小声でも目立ってしまうのです.お線香のような微妙な香水の匂いとともに・・・・・・

 

  閑話休題  

 

昨日,新宿ピカデリーで公開されたばかりの園子温監督の最新作「希望の国」を観ました 園監督の作品を観るのは「冷たい熱帯魚」「恋の罪」「ヒミズ」に次いで4本目です

 

          

 

舞台は東日本大震災から数年後の日本,長島県.これは長崎と福島を合わせた架空の県名です.酪農を営む小野泰彦は,認知症の妻・智恵子と息子・洋一,その妻・いずみと平凡ながら幸せな毎日を送っていました そこにマグニチュード8.3の長島県東方沖地震が起こり,原発事故が併発します 原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定され,境界線の向こうにある隣家の鈴木家は避難生活へ,こちら側にある小野家は留まることができます.しかし,「大丈夫だ」という洋一の説得にもかかわらず,父・泰彦は福島の原発事故のことを忘れていませんでした.「国の言うことは信用できない.自分のことは自分で守るのだ」と言い,息子夫婦に避難するよう説得します.いずみの妊娠が後で分かります 「これは見えない戦争なの.弾もミサイルも見えないけど,そこいらじゅう飛び交ってるの,見えない弾が!」という叫びが心に響きます.彼女は洋一を説得して原発事故による放射能の子供への影響を恐れ避難することを決意します 

認知症の智恵子は時々,口癖のように「おうちへ帰ろうよ」と言います.その都度,泰彦は「10分待て.10分経ったら家に帰ろう」と言ってなだめます 自宅にいて「いえに帰ろう」という智恵子ですが,もはや帰る家がないことを誰も教えてくれません.もっとも何も知らされない方がよほど幸せなのかも知れません

 

          

 

一方,隣家・鈴木家の長男・ミツルと恋人のヨーコは,消息不明のヨーコの家族を探して,瓦礫に埋もれた海沿いの町を歩き続けます.しかし,家族を見出すことはできません 鈴木は避難所で妻に言います.「言いたくはないが,津波にさらわれたと思う」.二人の懸命な努力にもかかわらず,ついにヨーコの家族を見つけることはできませんでした

 

          

 

長島第一原発は水素爆発を起こし,最悪の事態を招きます.泰彦の家も避難区域に指定され,強制退去を告げる文書が届きます.「この土地から離れることは出来ない.ほかに帰る場所はない」と思う泰彦は決断します まず,飼っていた牛をすべて自らの手で銃殺し,妻・智恵子を道連れにして銃で自殺を図ります

一方,洋一はいずみの提案で半径20キロからさらに遠くに避難しようと車を走らせます.その途中,海辺に寄り,くつろぐ親子にやさしい眼差しを向けるいずみ.それを見つめる洋一のカバンの中からカチカチと言う音が.「ガイガー・カウンター」が放射能を捉えていたのです やさしく抱き合う二人ですが,「愛があれば,何があっても大丈夫」といういずみに対し,「そうだろうか?」と答える洋一.この会話は実際の被災者家族の夫婦間の,あるいは親子間の希望と不安の象徴だと思います

 

          

 

さて,この映画ではテーマ音楽のように流れている曲があります.それはマーラーの交響曲第10番「アダージョ」です マーラーは交響曲を11曲(大地の歌を含む)作曲していますが,第10番は最後の交響曲で,未完成の曲です.マーラーは第1楽章の「アダージョ」のみ作曲して死去しました.本来は5つの楽章から構成されるはずの曲でしたが,第2楽章以降はスケッチが残されているのみです

この映画で「アダージョ」が流れるのは5つのシーンです.最初は,小野一家がくつろいでいる時,急に地震の強い揺れが起こった後のシーンです.福島の大地震を想い起させるかのように悲痛なアダージョが流れます

2番目は,ミツルとヨーコが瓦礫の中を彷徨っているときに少年少女に会い,「これからは一歩,二歩,三歩でなく,一歩,一歩,一歩と言って歩くんだよ」と言われますが,いつしか彼らは消えてしまいます 彼らを呼ぶ「おーい,おーい」という声にマーラーのアダージョがかぶります たった今目の前にいた少年少女が次の瞬間いなくなってしまった喪失感を表しているかのようです

3番目は洋一といずみの会話のシーン.

4番目は認知症の智恵子が若い時に着ていた浴衣を羽織って一人で家を抜け出し,誰もいない町を抜けて避難指定区域にある思い出の場所に行くシーンです.

最後は泰彦の猟銃の音が空に轟き,思い出の木々や家が炎に包まれていき,続いて場面が転換し,洋一といずみを乗せた車が高速道路を走り抜けていくラスト・シーンです 炎を背景にアダージョ楽章が流れるシーンは,奇才ケン・ラッセル監督の「マーラー」(1974年制作)を想い起こさせます.映画の冒頭,湖で爆発が起こり,燃えさかる炎の中,このアダージョ楽章が流れます もっともラッセル監督の方は同じ第10交響曲のアダージョ楽章でも,冒頭部分ではなく,中盤の,オーケストラがフォルテッシモで爆発する部分ですが 使った部分が違っていても,二人の偉大な映画監督がマーラーの同じ曲を使ったことに感慨深いものがあります

前作「ヒミズ」ではモーツアルトの「レクイエム」が,やはり瓦礫の浜辺の町のシーンで通奏低音のように流れていましたが,「希望の町」ではマーラーの未完成の交響曲の「アダージョ」が選ばれました.なぜ,園監督はマーラーを使ったのでしょうか

その答えは鑑賞後にショップで買ったパンフレットにありました その中に監督インタビューが載っています.

「本作でマーラーの交響曲第10番第1楽章『アダージョ』を使用したのはなぜですか?」

園:「もともとマーラーは好きなんですが,今回は何も台本を書いていない時から,あの曲で行こうと思っていました 被災地でも,たまにあの曲を車の中で聴きながら,どんな映画を作ろうか考えていたんです.僕にとって,『アダージョ』は旋律の中から不穏さと眩しさが交互にあらわれるような曲で,不安定な中から湧きたつ光のイメージが今回の映画にぴったりだなと この音をシナリオにすればいいんだと思うほどでした」

監督の言葉に寄れば,マーラーの第10番のアダージョは,この映画と切っても切れない関係にあると言えるでしょう 同じマーラーの交響曲でも,ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」で有名な第5交響曲第4楽章「アダージェット」でもなく,現世と別れを告げるような第9交響曲第4楽章「アダージョ」でもない第10番の「アダージョ」を選んだのは,監督の言う「不安定な中から湧き立つ光のイメージ」という表現にピッタリだからでしょう.最初は救いようのない悲痛なメロディーが流れますが,途中からほの明るい曲想が顔を見せ,わずかな”希望”が見えるような気分になります.それを監督は「希望の国」のタイトルにしたのかも知れません

ところで,この映画で使われているマーラー「交響曲第10番」のCDはアントニ・ウィット指揮ポーランド国立放送交響楽団による1994年11月録音による演奏(NAXOSレーベル)です

 

          

 

この映画で,もう一つ印象的だったのは,タイトルの扱いです.通常の場合,まずストーリーに入って,しばらくしてタイトルが表示され,再びストーリーが続く,というパターンが大いと思います しかし,この映画ではいつまで待ってもタイトルが出てきません.最後になってやっと「希望の国」というタイトルが横書きで出てきます

映画を観終わって思うのは「園監督は何と皮肉なタイトルを付けたのだろうか 『希望の国』とはいったいどこの国を指しているというのか」ということです.福島の現実を見た時,この映画の中に無理に”希望”を見出そうとするのは誤りだと思います.人々は,悲劇は喉元過ぎれば忘れるからです

私は園子温監督の映画が好きです.まだ観ていない「紀子の食卓」や「愛のむきだし」をはじめとする作品も,機会があれば是非観たいと思います.新しい映画もどんどん撮って欲しいと思います.大きな理由の一つは,園監督がクラシック音楽を効果的に使っているからです そのことを別としても,一人でも多くの方々にこの「希望の国」を観てほしい,と心から思います.現在のところ,私が今年観た映画の中でダントツ1位の映画です

 

          

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