明日に向けて

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明日に向けて(775)小泉原発ゼロ宣言の背景としての自民党政治の変容―1

2013年12月21日 11時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20131221 11:00)

小泉元首相の原発ゼロ発言をいかに捉えるのか。2回にわたる考察を踏まえて、今回はより根本的なことに踏み込んでいきたいと思います。小泉発言のさらに大きな背景としてある自民党政治の大きな転換についてです。
ただ歴史の流れなので書き出したら、分量が多くなってしまいました。また小泉首相の発言とは大きく離れるので、タイトルを変えて新しい連載とすることにしました。これに伴って、(774)を(中)から(下)に訂正します。

さて本題ですが、これまで自民党の中には、伝統的に野党や反対派を取り込んでいく「左向き」の政策や勢力がありました。この部分を野党時代にすっかり失い、あるいはそぎ落として、「右向き」の政策、勢力のみで登場してきているのが今の安倍政権です。
「左向き」とは、自民党の中で政治理念よりも利益分配によって支持を集めようとする政策のことで、その中には社会保障制度の確立、維持にに力を入れたり、経済格差の一定の是正などを目指す人々のことです。小泉政権時代に「抵抗勢力」としてそぎ落とされてきた勢力のことでもあります。
この勢力は、自民党の伝統政治の中で、常に自民党政治に不満を持つ人々を吸収し、野党や左翼の側に人々の支持が向かないための役割を果たしてきました。不満のショックアブソーバーでした。それが自民党の極めて長期にわたる政権を支えてきたとも言えます。
今の自民党にはそうした勢力が不在です。小泉氏自身が解体を進めたためですが、野党になることで利益分配ができなくなってしまったことも大きい。そのため自民党はショックアブソーバーを持たないむき出しの右翼政権になっています。実は本質的には、高度経済成長期よりずっと弱いのです。

自民党の長期政権を可能にしたこれらの人々の持つ政治的傾向は、戦後政治史では「保守本流路線」と総称され、吉田茂―池田隼人―田中角栄―宮沢喜一などに継承されてきたものと分類されています。(以下、歴史的記述では敬称を省略します)
「軍事小国・経済大国路線」などとも言われますが、しかしそれがはっきりとした定着を見たのは、安倍首相の祖父の岸伸介による戦前回帰、軍事大国化路線が民衆によって否定される中でのことでした。
戦後の混乱期を経て、1955年に保守合同がなしとげられて自由民主党が成立した時、自民党の中には、戦前のような国家に回帰しようとする潮流と、戦前の様な軍部独裁は二度とごめんだと考える潮流が矛盾的に併存していました。
こうした中でで首相となった岸伸介は、戦前回帰の代表として振る舞い、対米従属も超えた軍事大国に日本を発展させようとして、日米安保条約改定を重要政治課題に据えます。こうした中で1960年、条約の改定の日が近づいてきました。

岸内閣の政策に戦前のファシズム国家の再来を見た民衆は、安保改定反対を叫んで行動を開始。やがて国会前には数十万のデモ隊が連日包囲する状況が生まれました。人々は軍国主義的な岸内閣退陣を叫び続けました。
やがて岸伸介は、安保条約改定を強引に実現したものの、退陣を余儀なくされました。民衆の力が軍事大国化を阻んだのです。
続いて登場したのが池田勇人を首班とする内閣でした。戦前回帰の岸伸介に対し、池田が打ち出したのは「所得倍増計画」でした。安保をめぐる矛盾を、民衆の生活の向上の中で解消しようとしたのです。このため池田内閣は野党から「低姿勢内閣」などと呼ばれました。
池田は、安保条約を維持する理由についても、岸内閣のようにアメリカと対等な軍事同盟を保持する国家に変貌していくためのものではなく、経済的に不効率な軍事部門をアメリカに任せ、日本はその分、経済成長に邁進することができるから良いのだとうたいました。

池田内閣はさらに国民皆保険制度をはじめ、社会保障制度の充実も推し進めつつ、1964年の東京オリンピックに向かいだしました。経済発展の象徴として新幹線や首都高速、東京タワーなどが次々と作られていき、実際に所得が大きく伸び始める中で、安保闘争は次第に後景化していきました。
このとき池田首相のブレーンであり、のちに首相となった宮沢喜一氏が、こうした政策を「ニューライト」路線と名付けました。その中には左翼政党が主張する社会改革の内容を、自民党が取り込み、実現していくというモメントも含まれていました。
宮沢らは、戦前への回帰を目指す「オールドライト」に対して、安保闘争に日本の民衆の中への民主主義の浸透を認め、それとの融和を目指したのでした。そのため軍事・外交路線の政治焦点化は避け、生活向上を政治の争点にし、「豊かさ」の中に民衆を包摂しようとしたのでした。
これは安保反対運動の大きな高揚、民衆の力の台頭への恐れからきたものでもありますが、同時にいかにそのエネルギーを解体し、取り込み、経済成長の活力に転化していくのかを考え抜いたものでもありました。

こうした政策は、もともとロシア革命以降の世界的な社会主義の台頭に対応し、第二次世界大戦後のイギリスを中心に、自由主義諸国で生まれたケインズ主義的な政策を下地としていました。政府が積極的に財政出動を行い、需要を創出して経済成長を果たしつつ、同時に高福祉国家を実現する政策です。
戦後の荒廃の中から立ち上がった日本では、経済再建の分野で、政府が強力にリードしていくケインズ主義が確立していましたが、池田内閣以降に積極化されたのは、「所得倍増」の合言葉のもとさらに公共投資を拡大しつつ、民衆へも一定の利益配分を行うことでした。
東京オリンピックはその絶好の機会でした。日本はこれを契機に「高度経済成長」の道をひた走っていくようになります。池田政権はケインズ主義を社会保障制度の拡充にも適用し、皆保険制度のもとでの医療の充実などが図られていきました。
このもとに国会を取り巻く数十万のデモで岸内閣が倒されながら、自民党は政権を失わず、その後の野党勢力の拡大を押しとどめて、民衆の支持の拡大をもう一度、実現することに成功しました。

しかし民主主義を求める民衆の声は、1960年代後半から再度、再燃していきました。60年代にアメリカがベトナム戦争を開始し、日本各地の米軍基地から爆撃機が飛び立つ情勢の中で「ベトナム反戦」を軸に民衆が再度、大きく立ち上がったのです。
この時、自民党の中で台頭してきたのがのちの首相の田中角栄でした。田中角栄は、民衆運動の中でも突出して高揚する学生運動を力づくで押しつぶすことを画策。「大学運営に関する特別措置法」という法律を国会通過させました。それまで「聖域」として警察が介入できなかった大学に、警察権力=機動隊の導入を可能にした法律です。
田中のライバルだった大平正芳のブレーンの伊藤昌哉は、自著『自民党戦国史』の中で、このとき田中角栄がこの法案を手に「これでわしに天下がやってくる」と叫びながら国会の廊下を走ったという逸話を紹介しています。それほどに学生運動を潰すことは、国家にとって重要な課題だったのです。
やがて田中は「天下をとって」首相になりましたが、政権をとるやいなや、伝統的な経済的取り込み路線を大々的に推し進めました。日本中に金をばらまいた「日本列島改造論」です。新幹線や高速道路の拡張を軸に、公共投資をさらに拡大し、生産力をどこまでも伸ばしていくことが目ざれました。原発もその重要な柱の一つとされました。

保守本流路線はこのように、1970年代も貫かれていきましたが、しかしこの路線は、戦後世界の枠組みの大きな変容の中で次第に展望が見えなくなっていきます。最も大きな要因は、ベトナム戦争で疲弊したアメリカが1971年に、ドルと金の兌換を一方的に取りやめる宣言をなしたことです。
これに追い打ちをかけたのが1973年のOPEC諸国による石油戦略の発動でした。アメリカの豊富なドルの力を背景としたスペンディングポリシー=公共投資による有効需要拡大政策と、安い石油原料を背景とした加工貿易体制が大きくぐらつきだしたのです。
1970年代は世界的に資本主義の行方をめぐる動揺の時代とでしたが、次第にアメリカの中からケインズ主義による有効需要創出の創出や、社会の安定化のための社会保障制度の拡充を否定する潮流が台頭してきました。いわゆる「新自由主義」です。
経済学の分野で中心をになったのは、経済学者のミルトン・フリードマンでした。フリードマンはケインズ主義のような政府による市場への介入が自由競争を阻害していると激しく非難。また社会保障制度があるから競争心が育たないのだと主張し、弱肉強食の市場原理こそが経済を発展させると顕揚しました。

やがてフリードマンらの経済政策を採用しつつ、他方で強引な軍拡を行うという矛盾をはらんだ政権がアメリカに登場します。レーガン政権です。レーガンは強いアメリカの復活を掲げ、そのために自由競争の強化が必要だと訴え、社会保障制度の切り捨てを始めました。
一方で大規模な軍拡を主張。大陸間弾道弾とは別に、トマホークなどの巡航ミサイルに搭載した戦術核の使用にまで言及。この点が「小さな政府論」とは矛盾していたのですが、レーガンはさらに、大気圏外に打ち上げられた衛星からのレーザービームによってソ連邦の大陸間弾道弾を撃ち落とす「スターウォーズ計画」をすら表明します。
このレーガンの登場に呼応するようにして登場してきたのが、イギリスのサッチャー政権でした。サッチャーも、社会保障制度の充実化こそがイギリスを構造的な停滞においやったと唱え、自由競争の強化を掲げました。
日本でも、自民党の傍流に位置していた中曽根康弘が首相の座につき、伝統的な保守本流路線の清算を意味する「戦後政治の総決算」を呼号しました。中曽根は社会的共通資本であった国鉄の分割民営化を叫び、日本労働運動の拠点であった国鉄労働組合(国労)の強引な解体を推し進めました。

これらの政策は、世界的にも日本国内でも、自由主義政権が人々の支持を取り付けるために行ってきた「左向き」の政策を捨てることを意味しており、国内矛盾の激化が必至のものでしたが、もっと大きな世界史的要因によって、政策遂行者を有利な立場に置きました。ソ連や東欧の社会主義が行き詰まり、崩壊しだしたことです。
1970年代、資本主義各国は、アメリカの経済力と、安い資源によって生産力の拡大を実現し、利益分配を可能にして資本主義体制のもとに人々をつなぎとめきたそれまでの政策の根拠を失い、政治的な不安定を迎えていました。
ところが資本主義の競争相手であった社会主義各国も、社会の硬直化の中で生産拡大のインセンティブを失い、行き詰っていました。こうした中でソ連邦は、レーガン政権のとった大規模な軍拡路線に対抗しきれなくなっていきます。
こうした中で1985年、ソ連共産党の新たな書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)軸とする大改革が断行されはじめました。アメリカとも電撃的に軍縮会談を行い、冷戦終焉がにわかに現実味を帯びるようになりました。

ゴルバチョフはまた「人間の顔をした社会主義」を標榜し、ソ連や東欧社会主義の硬直化を脱することを目指しました。しかしそれまでの長きにわたる共産党独裁体制からの転換は、それまで押さえつけられていた矛盾の一挙的な噴出となって現れました。
これに拍車をかけたのが1986年に起こったチェルノブイリ原発事故でした。事故直後のソ連当局の事故隠しの在り方が、政府に対する民衆の信用を大きく後退させるとともに、長きにわたって上からの指令のもとで暮らしてきたあり方の見直しが始まったのでした。
ソ連内部から始まったこの大きな変動はたちまちのうちに東欧社会主義各国に波及、各国共産党も、ソ連の後追いをするに「改革」政策を打ち出しますが、それよりも民衆の覚醒が早く進んで体制が大きく揺らぎ始め、社会主義各国が1980年末に次々と瓦解。やがてソ連邦までもが1991年に崩壊してしまいました。
自由主義圏各国内部にもこれが波及。多くの国で民衆運動や労働運動に影響力を持っていた左翼政党が、社会主義の世界史的後退の中で支持を失い、新自由主義的な政策は、十分な対抗軸が形成されないままに社会に浸透しだしてしまいました。

続く

 

 

 

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