明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1848)広島の原爆死の真実を捉え返すー1 あの日たくさんの人が圧焼死していった(NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2020年07月22日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20200722 10:00)

●原爆の非人道性をより深くつかまないといけない!

8月6日、9日に向けて、72年目にしてあらたな事実を突き出したNHKドキュメントの文字起こしをお送りします。

*****

原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) 
https://www.dailymotion.com/video/x5wr1y3

ナレーション
通勤通学の人々が行き交う朝8時の広島市。
72年前、8月6日の朝もここには同じ光景が広がっていました。
これは1945年の広島の航空写真。
無数の青い光は原子爆弾が投下されるまでの人々の動きです。
55万7,000人の被爆者のデータをもとに初めて可視化。
広島市の外から8万人が市内に向かっていた事が分かりました。
国のために動員された学生や女性たち。
多くの人がいつもと同じ朝を迎えていました。
そして8時15分…。
この人々の頭上に原爆は投下されたのです。

人々の動きを遡って見てみると、一人一人の命の軌跡が浮かび上がってきます。
郊外にあるこの5つの点。
一つ屋根の下に暮らす家族でした。
夫婦は幼い子ども2人を老いた母に預け出勤。
45歳の夫は北部にある工場で被爆しましたが助かります。
36歳の妻は勤労動員で市の中心部へ。
そこはまさに爆心地でした。

当時2歳で母親を失った柳原有宏さん(74)です。
 
映像、額に入った30代の女性の写真?
取材者 「お母様?」
柳原  「ええ」

まだ物心が付く前でした。
母の満子さん(享年36)
この写真だけが面影を知る手がかりです。


柳原
「これが母親だと言われてきたんですからね。ああ、美しい、きれいな方だなと思いながらですね。
会いたかったですね」

アメリカが広島に投下した原子爆弾。
その年だけで14万人の命を奪ったとされていますが、いつどこで、どのように命が奪われていったのか、詳細はいまだに分かっていません。
今回私たちは広島市が集めた55万人以上の被爆者の記録を初めて入手。
そのビッグデータを解析して、原爆による死、原爆死の全貌に迫ることにしました。
するとこれまで分からなかった死の実態が次々と浮かび上がってきたのです。

投下された日の死者は53,644人。
それぞれの被爆した場所が詳細に判明しました。
また死のドーナツ地帯とも呼べる特定の地域で被爆した人々が、翌日以降次々と亡くなっていました。
更に原爆の放射線がほとんど届かなかったとされる2.5k?より外の地域でも、謎の死が相次いでいた事も分かってきました。
 
放射線の専門家
「確かに驚きますね。まだ我々が知り得ないところで、何らかの関係があったのかなというふうに思います」

ビッグデータを手がかりに追った、死に至るまでの被爆者一人一人の姿。
人々の頭上に投下された核兵器は何をもたらしたのか。
72年目の真実です。
 
タイトル
 
広島市原爆被害対策部。
その一角に被爆者の調査を続けてきた部署があります。
ここにいまだ公開された事のない記録が残されていました。
原爆投下の直後から作成されてきた資料です。
死亡した際の診断書。診察に当たった病院のカルテ。
市が集めた資料はこれまでに150点を超えます。
これらをもとに市はデータベースを作成。
原爆被爆者動態調査と呼んでいます。
その数55万人分に上ります。
これまで一人一人がどのように亡くなったのか詳しく解析されていませんでした。

2歳の時に原爆で母親を失った柳原有宏さんです。
この辺り(原爆慰霊碑付近)で亡くなったとされる母。
遺骨さえ見つかっていません。
最期を知りたいと思い続けてきました。
 
柳原
「やっぱり苦しいですね。
爆風に飛ばされて亡くなったもんやら、熱線で亡くなったもんやらですね。全然分からないですからね。
まあ、母のことを言えば、ついつい涙が出ますけど、それがずっと心の中にあるんだと思うんです」


一人一人がどのように命を奪われていったのか。
私たちは今回初めて動態調査のデータを個人が特定できない形で入手しました。
被爆した場所や死亡した場所。
そしてその日時。
死因や家族構成などのデータです。

更にここに別のデータを重ね解析しました。
火災の発生時刻や気象データ。
被爆者が描いた絵やNHKの取材情報などです。
これらを広島市の航空写真に落とし込み、解析することで、原爆死の全貌に迫ることにしました。


原爆が投下された8月6日、広島はいつもと変わらない朝を迎えていました。
この青い光は一人一人の自宅と被爆した場所を、結び移動を可視化したものです。
多くの人が市の中心部に向かっています。
原爆はこの人々の頭上で炸裂しました。


私たちは被爆した場所ごとにこの日の死者を数え上げていきました。
その数、53,644人。爆心地から3㎞以上離れた場所でも死者が出ていました。
8月6日の死者の数が被爆した場所ごとに可視化されたのはこれが初めてです。
いたる所で人々の命を奪っていた原爆。
動態調査のもとになった資料から人々がどのように亡くなったのかが分かってきました。
検視調書。
警察官が医師と共に遺体の確認を行った記録です。
焼死や、やけど。
そこには一人一人の死因が詳細に記録されていました。

検視の拠点となったのは爆心地から1.2㎞離れた東警察署。
現在は銀行になっています。
当時の東警察署が写った航空写真です。
青で示したのは人々が亡くなった場所。
データは広島の街の1/3ほどに限られていました。
しかしここを詳しく見ることで、市全体の傾向をつかめるのではないかと考えました。
死因を詳しく見ていくと最も多かったのが黄色で示した焼死。
1,406人に上りました。
赤で示したのは聞き慣れない死因でした。
圧焼死です。
それはどのような死だったのか。
圧焼死が集中している地域を見てみると20人が同じ地点で亡くなっている場所がありました。
そこは女学校でした。
 
広島女学院。当時の校舎は原爆で焼失しましたが戦後同じ場所に再建されました。
8月6日の朝もここに144人が登校し礼拝が行われていました。
この日は久しぶりに学徒動員を解かれた女子学生たちが学校に集まっていました。
その一人が見つかりました。

「私はこの辺りにいたんです。」
当時17歳だった鎌塚寿恵子さん(89)です。



音楽を通じて仲よくなった親友と一緒に講堂にいたといいます。

それが成井明子さんでした。

 

鎌塚

「あの方、きれいなソプラノですからね。わたくしは低い方だから。
いつも2人で高音と低音で二重唱をやっていました。
それだけはやっぱり懐かしい思い出なんですけれども‥」

礼拝を終えた直後の8時15分。
原爆が炸裂。
鎌塚さんたちを秒速100mを超える猛烈な爆風が襲いました。

「光ったとたんにドカンですから。あっと思ったらもうつぶされたんです」
講堂は倒壊。
鎌塚さんと成井さんたち生徒は生き埋めになりました。
鎌塚さんはなんとかがれきの隙間を見つけ、脱出しましたが成井さんの姿はありませんでした。
 
「あの方の声だけ聞いて姿が見えないんですよ。
成井さんの声だってことがわたくしがすぐ分かってかけよったんですけれども
がんばって、がんばって、なんとかするからって‥」

その時、学校周辺はどのような状況だったのか。
ここに火災発生時刻のデータを重ねてみます。
学校のそばではまだ火災は発生していませんでした。
鎌塚さんは成井さんを助けたい一心でがれきを必死に動かそうとしていました。
1時間半を過ぎた頃燃え広がった火がついに女学院に迫ってきました。
友人たちはまだがれきの下でしたが、教師から逃げるように命じられ、泣きながらその場を後にしたといいます。
 
「一生懸命、こうやってたんです。どうにかならんかと思って。」
「それがどうしても助けることができなかったのは私の一番の苦しいというか思い出したらたまりません。
何年もたっても忘れることはできないんです」


広島には被爆者によって原爆投下後の様子が描かれたおよそ4,000枚の絵が残されています。
8月6日の様子を描いた絵の場所を特定しました。
そして赤い圧焼死による死者が集中した地域に絵を重ね合わせます。
そこで描かれていたのは倒壊した建物に火災が迫る様子でした。
がれきに挟まれた母と子が助けを求めています。
圧焼死とは生きながら焼かれ、亡くなった人の姿だったのです。
 
鎌塚さんはその後、成井さんがどのように亡くなったのか分からないままでした。
私たちは8月6日女学院で20人が圧焼死していたことを伝えました。
 
「むごいです。亡くなり方があまりにもむごたらしい。
わたくしも相当苦しかったけれど、この亡くなられた方は 火が来たんだもん。気の毒ですよね。ほんとに。
辛かったと思います。苦しかった。どんなに苦しかったろうねえ。
‥長い沈黙‥
会いたいです。わたし、成井さんに。もう一度会いたかったです」
 
8月6日、いつもと変わらぬ朝を迎え命を奪われていった53,644人。
その一人一人の軌跡は苦しみ抜いて亡くなった人々の姿だったのです。
 
続く

#原爆死 #広島 #原爆死ヒロシマ72年目の真実 #圧焼死 #広島女学院

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