富田パソコンサークル (Tomita PC Circle)

京都の京丹波町富田の「公民館」をホームに活動するパソコンサークルのブログ。

ボキャブラリー?どうでもええことなんか 

2007年11月03日 | Weblog
仕事に行く途中で聞いたFMの
「α Staion」のDJのMr佐藤がゆうてはったことが
印象深く、しみじみ納得も出来る話なんやけど
この頃の若いもん、いや老若男女を問わず日本語の
言葉が単純化っていうか、もっというと貧困化してるって話です。

例えば電話なら「電話をかける」やし
「工夫を凝らす」であり、「挨拶を交わす」という具合に
本来の日本語ならそれぞれの言葉に続く
動詞にいろんなバリエショーンが、あって
それが何とはなしに日本語の豊かさみたいなモンであり
会話として成り立っていたと思う。
まどろっこしいけれど、「機微」を伝える日本の文化の
エッセンスみたいなモンやろか・・・そんな気がする

こういう、従来の日本語が本当は細やかな感情や
人への思いや自分の意志を伝えてるのに
言葉の持っている配慮っていうか、「考え」や「思慮」を
もうとっくに無視して、気がつくと、
「する」っていうように単純化して
「電話する」「工夫する」「挨拶する」ってすましていることに気付かされます。



このことは、考えること、思いやるってことをしなくなった
原因の一つちゃうんかなって、Mr.佐藤もゆうたはったんやけど
・・・・同感です。

「メールしとくわ」っていう無機的な言いようと
せめて「メールを送っとく」とか「メールに書いとく」って
いう言い方が相手に伝えてる気持ちが違うように思える。


言葉が貧困になると、どんな状況でも
「むかつく!」とか「カワイイ~」っていう具合に
十分考えずに、適当に言い放つ
そうすると聞いてる方は、ホントの真意にふれることも
気持ちが伝わることもない気がしてくる


どんどんすさんだ事件が、今まではありようもなかった
家族の間にさせ、おこってくる現実と
無縁でない気がする。家族の間でさえ
気持ちがつかめなくなって・・・・

遅まきながら、自分や自分の子供達、次の世代に
ゆうとかなあかんことちゃうかなって思う。


帰ってきたイーグルス

2007年11月03日 | Weblog

といっても「マー君」のいる楽天イーグルスとはちゃいます。
自分が若くて、ぴちぴちしていた頃に
耳にした「ホテル・カリフォルニア」の音楽に
それまでのビートルズサウンドと違う衝撃を受けました。



最近は、カバーとかゆうて他人さんの曲を歌って吹き込むのが
はやってますよね・・・・多分作り手もネタ切れやし
歌詞考えるのも「阿久悠」ほどに思いつかへんし・・・・・・

ところがこのイーグルス、とりわけドン・ヘンリーの唄は
誰が歌おうが何しようが、ドン・ヘンリーを超えられへんって
いうか・・・ドン・ヘンリーの曲は
ドン・ヘンリーのボーカル以外にはあり得ないのデスヨ
それだけ僕は、心酔しています。

「Long Road out OF EDEN」

あっという間に解散したこの伝説の「イーグルス」が60歳で
再結成して、しかも新たな曲作りしてアルバム出します。
欲しい!
・・・・当時の「カリフォルニアロック」っていうのも新しくて良かったけど
プラグ抜いて、アコースティックで聞いた「Desperado(デスペラード)」
Hotel California」もよろしおしたわ

「Long Road Out of EDEN」 
かつてエデンの園があったというイラクの地に侵略し
聖地を血に染めて、人々の憎しみをむしろ増長させて、
自らを省みることなく兵を送り続け
欲望のままに富を求めながら、何もかも失っているように見える
今はもう疲弊しきったアメリカに対する
ドン・ヘンリーのメッセージが込められたアルバムタイトルです
[How Long]  何年かけて、何年で終わるのか
道に迷ったアメリカの行く先はもう見えてません


年いったゆうてられへん。年いったからこそ彼らは帰ってきたんやから

アメリカ嫌いになった僕の唯一の好きな「アメリカ」
それは、Eaglesやな・・・


「椿三十郎」

僕は日本の映画で、クロサワの描いて見せた昭和の映画は
どれをとっても、すぐれて名作と断言できます。
それは、世界の評価を待つまでもなく、練りに練られたシナリオと
映像美、キャスティング、演出全てに完結してて
完全に近いできあがりの作品群です。

とりわけ「用心棒」「椿三十郎」の三十郎シリーズは
エンターテーメントとしてすぐれており、単なる時代劇としてでなく
クロサワが現代に置き換えて社会を映して見せた切り口は
今もまた新鮮で何度みても素晴らしい

椿三十郎では、一つの試みが結実しています
彼は、白黒映画というモノトーンのスクリーンを通して
見事に色彩を表現している。
それは白い椿と対照的に赤い椿をモチーフにすることによって
見事に色を際だたせ、最後の室戸勘兵衛の血しぶきまで
みたものはみな、赤い映像を、いや、まるでカラーの彩りを
脳裏にたたき込まれてしまいます。
赤を際だたせるためにむしろ白黒の映画である必要が
あったんだろうとさえ思えるのです。
だからこそ、タイトルでさえ「椿三十郎」でなければならなかったのでしょう。
そしてそこに、「ミフネ」というキャラクターがなければ存在もしない。

完結しているというのにはわけがあり、近頃
椿三十郎のリメイクが出来る・出来たらしいと聞いて
悲しくなりました。
クロサワの作品は、アレはもう絵画のように
作品として完結しているのであって、
誰かが思いつきで取り直しても全く意味がないどころか
コピーにも取るに足りないものになる。



リメイクを思いついたもの達が、いま「言葉が足りない時代」に
あの作品を見て、取り直しを思いついたことこそ
浅はかで、薄っぺらく思う。感性も働かなかったんだと思えてくる
作品としての尊敬を感じるのであれば、
リメイクするのでなく、リバイバルでクロサワの「椿三十郎」を
再上映することにしか意味はないのです。