彦四郎の中国生活

中国滞在記

福建師範大学の中国人の同僚が家族とともに来日❶—関西・北海道・関東、10日間の日本旅行—

2016-08-05 03:30:31 | 滞在記

 7月30日(土)から8月9日(火)まで約10日間の日程で、福建師範大学外国語学部日本語学科の中国人同僚の倪霞(にいか)准教授が家族とともに日本旅行に来ることになっていた。この日本旅行の日程や宿泊先などについて 中国でいろいろと 彼女の相談にものってきた経過があった。夫の潘(はん)さんと息子(中学1年)と倪霞さんの3人の家族旅行である。
 7月30日(土)の夕方6時30分に中国・福州から関西国際空港に到着予定だが、飛行機の出発が1時間ほど遅れるとの国際電話が福州よりあった。国際電話で、30日の京都市内での宿泊先がメールで送られてきていた。「京都市左京区大文字町153-4」とあった。パソコンでこの住所を検索してみると、平安神宮の近くなのだが 夜に行ったら探すのが難しい場所のようなので 明るいうちに 行ってみることにした。この宿泊場所は、倪さんの知り合い(東京在住の中国人)が 予約をしたようだ。
 自宅から京阪電車に乗って、丹波橋というところで特急に乗り換えた。空いている席があったので 座ろうとしたら、中学生と高校生の姉妹らしい2人が すばやく走りこんで来て 目の前で 席に座り込んできた。あっという間のできごとに唖然とする。「あつかましい!」というか「思いやりのかけらもない!」というか。日本の国の若い人に対して情けない気持ちとなった。これは、中国ではぜったい起こりえないことだろう。日本では、近くに妊婦や小さな子供づれの人、老人の人がいても平気で座っている若い人をよく見かける。同じ日本人として恥ずかしい気持ちになることが しばしばだ。
 京阪三条駅で下車。パソコンから印刷した詳細な番地地図をみながら その宿を探した。入り組んだ路地に その建物があった。これは、いわゆる「文化住宅」形式の古びたアパートだ。最近 はやりの「ゲストハウス」の一つなのだろう。住所に書かれた部屋に 人の気配がするので 「ピンポン」と呼び鈴を押してみた。すると 中には 3人の外国人(欧米系)がいた。時刻は午後6時。「おかしいな???今日はこの部屋は倪さん家族が宿泊予約をしているはずだが---???」 外国人に聞いてみるが スペイン語のような言語をしゃべる人達なので、言葉が理解できず なぜこのような状況になっているのかが わからなかった。
 ひょっともしたら、ブッキング(なにかの間違いで、予約が重なっている)の可能性があって、倪さんたちは宿泊できない可能性がでてくるな----。困ったな----。と思いながら、その場合は しかたがない 狭いが「我が家」に泊まってもらうしかない--。ということで、妻に電話で状況を伝えた。

 宿泊予定地から歩いて1〜2分の場所に鴨川が流れている。近くには二条大橋やホテルフジタがある。川にかかる石の飛び橋には、外国からの観光客たちが 過ごしていた。今日も暑い一日、川辺で 凉をとりながら 楽しそうにゆったりと過ごす人たち。京都という街の魅力がここにもあった。

 ここで1時間あまりを私も過ごした。そして、7時ころに再び 先ほどの「ゲストハウス」に行ってみた。こんどは、呼び鈴を押してもだれもいなかった。「出かけたのかな?」「それとも、荷物をかたずけて 去ったのかな?」わからない?

 何時ごろに、関西国際空港に到着するのだろうか? おそらく午後7時〜7時半頃か? すると、「関西空港リムジンバス:京都駅行き」のパスで京都駅八条口に到着するのは、早くて午後8時、遅くて午後10時頃かな? 倪さん家族がもっている中国の携帯電話は日本に着たら、使えないので、連絡をとることができなくなっていた。
 午後8時に京都駅に行った。「アクア・ファンタジー」という噴水と音楽のショー設備がなかなか面白い。世界的に有名で だれもが聞いたことのある クラッシック系音楽に合わせて 噴水がいろいろな表情を見せていた。
 待つこと1時間半、9時半に 倪さんたち家族が 日本の京都にやってきた。さっそく、京都駅の中を通り 京都駅七條口に移動しタクシーに乗った。
 ゲストハウスに着いた。明かりが着いていなかった。「良かった!だれもいない。」「ここに宿泊できる。」 倪さんから、このゲストハウスの大家さんの電話番号を聞いて 電話をした。つながった。赤いポストの番号ダイヤルを聞く。ポストを開けると 同じ鍵が3つある。「なぜ3つの鍵があるのですか?」と聞いたら、「3つの部屋があるので、同時に3組のお客さんが宿泊できるのです。」とのことだった。これで納得できた。夕方 見た 欧米系の外国人たちも 今日の宿泊客だったのだ。
 鍵を開けて、中に入ってみる。1階には 小さな台所と 狭いトイレ と 狭いシャワー室と 四畳半の1室、狭い階段を上がった2階には 四畳半ほどの部屋が2つあった。なには、ともあれ 部屋のクーラーをつける。四畳半ほどの部屋に 布団が3組あった。倪さんに宿泊の値段を聞いてみると びっくりした。「3人で1万2000円です。一人4000円で二人だと8000円の値段です。」とのこと。このような部屋で 1室12000円とは 高すぎだと思った。しかし、外国からの利用者は多いようだ。
 翌日(31日)の朝9時に迎えにくることにして、私も自宅に戻ることにした。




 






ちょっと、ふるさと越前(福井県)へ—東近江(滋賀県)の名刹「百済寺(くだらでら??? ひ○○○○じ)」—

2016-08-02 12:51:25 | 滞在記

 7月28日(木)の午後から29日(金)にかけて、一泊の予定で故郷の越前(福井県)に帰ることにした。故郷の家に一人でいる母の健康が少し心配だったのと、友人とも会いたかったからである。久しぶりに故郷の海や山や川も見たかった。1月以来、半年ぶりの帰郷になる。
 28日の午後、京都の京滋バイパスから名神高速道路に入る。途中「八日市インターチェンジ」を下りて東近江市(旧八日市市)に立ち寄る。鈴鹿山脈にほど近い水田地帯に行ってみた。このあたりが4月に結婚した娘の婿の山田君の故郷らしい。
 近くに、湖東三山(百済寺・金剛寺・西明寺)があるようなので、一番近い「百済寺」に行ってみた。寺の近くの農道まで行って、自転車のヘルメット姿で下校中の男子中学生に「百済寺(くだらでら)はどこですか?」と聞いた。すると学生は「くだらでら? くだらでら??」 私が「そうです。くだらでら です。」 すると又、学生は「くだらでら? くだらでら?」と頭を斜めにして、分からない風情。地元の人間のくせに百済寺もわからんのかいなと思っていたら、数秒して、「ああ!百済寺(ひゃくさいじ)のことですか!?」という。 「ええっ、ひゃくさいじ と読むのですか。」と その意外性のある読み方に感心した。 ということで 方向を教えてくれた。
 この寺に行ってみて驚いた。なんともいえない風情と歴史を感じることができる寺だった。門から寺にいたる長い長い石畳の道がすばらしい。参道の石畳の周りは たくさんの紅葉(もみじ)の木々。秋になれば さぞかし美しいだろう。この寺が1573年に織田信長軍の焼き討ちにあったことは知っていたが、この寺そのものの造りは、まさに城構えであった。参道の門の周辺には、堀がめぐらされている跡もみられた。当時は300あまりの僧坊があったようだ。1200人あまりの僧兵や僧侶がいたという。この近くには、「鯰江城」があって、観音寺城を攻略された六角氏が この城に逃げ込み それを支援する「百済寺」ともども織田の軍勢に攻められたようだ。ひさしぶりに みごたえのある寺を見つけることができた。今回は、時間があまりなかったので、寺の中には入らず、寺の参道と寺周辺だけを見て帰った。

 鈴鹿山脈の西側山麓沿いに多賀町を経由して、彦根市から名神・北陸の高速道で福井県の敦賀市に到着。木の芽峠越えの道を通って、故郷の南越前町の「今庄」に到着。このあたりは、古い歴史のある街道。夕方6時頃に越前市(旧武生市)の旅館「赤星亭」に着いた。
 夕方の7時半ころ、高校以来の友人の山本君に会い 居酒屋などで遅くまで 久しぶりに飲んだ。この越前市は、歴史のある街並みが今でも残り、街の周辺の田園風景が美しい。私が高校時代に下宿した街でもある。「生徒会長をするぐらい とてもまじめでもあり 謹慎や停学処分を3回も受けたこともあるぐらい とても真面目アホだった 「真面目とアホが同居した高校3年生間」の思い出がたくさん詰まった街である。いっしょにアホと真面目をした友人も けっこう多く住む街でもある。アホと真面目の混在した純粋な高校生を 暖かく見守り、結局よい方向に導いてくれた恩師も この街にまだ健在である。
 深夜、宿に戻り 半年ぶりに 畳の上に敷かれた布団というものに眠った。なかなかいいもんだと思った。

 翌朝、いつものように午前4時頃に目覚める。早朝7時すぎに旅館を出て、実家のある「南越前町糠」に向かう。山々や水田と里山の風景が美しい。越前市の大虫地区・安養寺地区を経由して白山地区に着く。この地区は天然記念物の「コウノトリ」が生息している地区でもある。コウノトリはとても大きくて美しい鳥だ。兵庫県の豊岡市から飛来したコウノトリたちの子孫である。
 この地区の近くの「土山地区」に、かって私の家のダンボ(田圃)があった。米が30俵ほどとれた谷川沿いの谷地田(やちだ)だった。子供のころから この水田に家族と共によく水田作り(コメ作り)の農作業にでかけたものだった。家から歩いて1時間ほどかかる水田だった。近年は この付近の谷地田でコメを作る人がいなくなってしまったようで、自分の家の水田まで行く道が 途中から道が草木に覆われて 行けなくなっていた。水田の上の方にある「金華山」まで車でいってみた。海が見えた。下の方には水田のある谷が見えた。

 実家のある「南越前町糠地区」にほど近いところに、小さな山がある。この山は、私の家の「山」だ。よく祖父や父と一緒に「木を切って薪を作りに行った山」で、「薪山(たきぎやま)」と呼んでいた。家に着きしばらく過ごす。墓参りに行った。墓からは、村や海が見える。実の母(33才)・祖母(78才)・祖父(81才)・父(62才)の順番で 骨が眠っていった小さな「寺坂家」の墓。いつか私も ここに入る。そう遠いことではないだろう。中国から無事に帰ったことを、4人の墓の中の人に報告する。

 午前10時頃、実家のある村の港に行く。港から 山の斜面にある 私の家の畑が見える。今も 冬には水仙畑が自然と群生する。港を後にして 一路 京都方面に向かう。まず、海沿いの越前海岸を走り敦賀市を目指す。途中の海岸沿いの道に、「桃」を販売する店があったので、立ち寄って買った。海岸線がとても美しい。
 敦賀市の郊外に「日本海さかな街」という大きな「魚市場」がある。60あまりの店舗と規模も大きい。日本海側で最大の「魚市場商店街」のようだ。ここで、「さばのへしこ」を3匹買う。家族は みんな へしこ(魚の糠・塩漬け)が大好きだ。最近では、中国からの観光客も立ち寄るのか、パンフレットは「日本語・中国語(簡体と繁体)・韓国語・英語」の4言語が書かれていた。

 店の人が 不要になった「氷」を外に放置していた。とても暑い35度の気温の日だったので、氷の中に足を突っ込んでみた。20秒ほどで我慢できないくらい、足の感覚がなくなり 痛くなってきた。
 敦賀から 若狭の小浜市や名田庄村(福井県)、そして京都府との県境にある堀越峠を登り切り、京都府の美山町に入った。そこから車で山間をひた走り京北町に入る。(西の鯖街道)  午後3時頃、丹波地方と山城地方の境目の峠の一つ:「京見峠」から京都の街が見えた。午後3時半頃、立命館大学近くの喫茶店で休憩した。

 午後4時開始 「講師・早稲田大学 細川英雄」の 言語学に関する講演会が立命館大学の創思館ホールであったので、留学生の立命館大学大学院生の林さんとともに聴講した。
 講演終了後、車で1時間ほどかけて自宅に午後6時ころに戻る。その日、「へしこ」を久しぶりに食べることができた。なんともいえず美味しいので、ご飯も3杯食べてしまった。

日本における外国人留学生数の現状—「教師採用合同日本語学校説明会」に行ってみた—

2016-08-01 12:00:32 | 滞在記

 日本に帰国後の7月12日、「大学院修了証明書」をもらうために立命館大学に行ったら、「教師採用合同日本語学校説明会」の案内ポスターがあったので、行ってみようと思った。この9月から再び中国の大学で教員生活を継続する予定となっているが、1年後には 日本に完全帰国し「日本語学校」(日本国内の) 教員の仕事をすることも少し考え始めている。(※どうなるかは、まだわからないが)

 7月27日(水)の午後2時開始の「第6回日本語教師採用合同日本語学校説明会」に行ってみた。大阪会場は、JR大阪駅に近い「梅田スカイビル」22階。関西の日本語学校21機関のブースがあった。午後2時〜6時までの4時間の開催だった、今回は、主に10月採用の説明会のようだ。日本語学校の多くは4期の入学(新学期)となっている。4月入学・7月入学・10月入学・1月入学の4期である。2期(4月・10月)だけの日本語学校もあるようだ。東京会場は7月30日(土)に開催予定で、関東の30機関あまりの日本語学校がブースを開設するようだった。
 ちなみに、日本国内には約400余りの「日本語学校」がある。最も多いのが東京都の約160学校。関西では、大阪市とその周辺48校・神戸市とその周辺28校・京都市20校・奈良県3校・和歌山市2校の合計約100校となっている。

 21の日本語学校ブースの中で、午後5時ころまでに8つのブースに行き 個人面談形式での説明を聞いた。日本語学校によって、学生の進路に大きな違いがあることもわかった。大きく分けると①日本の大学や大学院への進学を目指す学生の多い日本語学校 と ②日本の「専門学校」や日本の会社や店への「就職」を目指す学生が多い日本語学校 と ③ 日本語を勉強して 日本の文化や日本事情を学習する学生が多い日本語学校(欧米系の学生が多い) の3つだろうか。
 主に②と③が混在している学校や、①②③が混在している学校もある。①を特色とする日本語学校は、学校の規模もやや大きいし、入学できるための日本語レベル試験(条件)もあるようだ。そして、①に特化した日本語学校は そんなに多くはない。関西では①のような学校として 京都市の「語言学院」(※今回のブース参加はしていない)と大阪市の「エール学園」などがある。 ①②③が混在している日本語学校はけっこう多いようだ。例えば「ARC(アークアカデミー)」などがそうだが、このような日本語学校では、一応 大学や大学院への進学コースはあるが 進学指導としての実態は弱いようだ。
 数日後に、「エール学園」より「教員応募案内」のEメールが送られてきていた。「10月からの採用への応募参加の案内」だった。ちなみに、この学校の2016年3月卒業生の実績をみてみるとすごい。国公立大学合格実績61名、私立大学合格実績122名、国公立大学大学院合格実績39名、私立大学大学院合格実績25名 (※一人が複数合格している場合も換算しているようだ)となっていた。

 —日本における外国人留学生の現状―
 2015年度の外国人留学生在籍調査(独立行政法人日本学生支援機構)によると、2015年5月1日現在での留学生数は、208379人(約21万人)で、前年度の2014年度よりも約13%増となっている。その教育機関の内訳は、❶大学院➡41396人(約4万人) ❷大学(学部)➡67472人(約7万人) ❸短期大学➡1414人 ❹高等専門学校➡519人 ❺専修学校(専門課程)➡38654人(約4万人) ❻準備教育課程➡2607人 ❼日本語教育機関➡56317人(約6万人)。
 ❶「大学院」と❷「大学(学部)」と❺「専修専門学校」と❼「日本語学校」の合計で約21万人ちかくとなっている。男女比率としては、男54.9%・女45.1%。
 留学生の地域別比率としては、アジアが92.7%で、その他が7.3%。国別比率の上位10か国としては、中国が最も多く45.2%、次いでベトナム18.7%、ネパール7.8%、韓国7.3%、台湾3.5%、インドネシアとタイが1.7%、ミャンマー1.3%、アメリカ(USA)1.2%となっている。近年、ベトナムとネパールからの留学が急増しているようである。また、中国と韓国からの留学生が横ばい(微減)となっているが、中国と台湾の中国語圏の留学生比率は合計すると48.7%と約半数を占めている。
 日本の地方別の内訳は次のようになってる。①北海道➡2974人(約3千人) ②東北➡5050人(約5千人) ③関東➡114778人(約11万5千人) ④中部➡17947人(約1万8千人) ⑤近畿➡34491人(約3万5千人) ⑥中国➡7881人(約8千人) ⑦四国➡1578人(約1.6千人)⑧九州・沖縄➡23680人(約2万4千人)。 私の故郷の福井県は295人、住んでいる京都府は9299人、大阪府は15280人となっている。京都府の留学生は「大学院や大学学部学生」が多く、大阪府は「日本語学校」「専門学校」の留学生の比率が多いのかと思われる。
 関東(55.1%)と近畿(16.6%)と合わせて約70%の留学生が在籍していることとなっていた。