クーベリックのショスタコーヴィッチなどといふものが聴けるとは思っていなかった。1950年のアムステルダムでは、現代ものを紹介したり、メニューヒンとのデュオコンサートで洋琴伴奏を勤めたりと、いくつもの知らない顔を覗かせてゐて興味深い。
1950年の1月から3月までのコンセルトヘボウ管絃團との演奏会で取り上げた現代ものの中には、Mica、Tasman、Landre、Badingsなどといふ聞き慣れぬ作家の名も並ぶ。いずれも交響的作品や協奏曲を紹介してゐる。此の中に、今日聴いてゐるショスタコーヴィッチのレニングラード交響曲が含まれてゐたわけである。クーベリックは1956年にも同じくコンセルトヘボウとショスタコーヴィッチの第6番を演奏してゐるが、これら以外には僕はクーベリックのショスタコーヴィッチを知らない。
第1楽章では打楽器協奏曲の様相を呈してゐるが、これがナチス独逸の露西亜進撃の様子には聴こえない。コミカル過ぎるのだ。コミカルなのだかシニカルなのだか分かり辛い此の作品だが、終楽章の最後に回想される第1楽章冒頭のテーマは、正に其のやうな印象を更に強調して曲を閉じるのだ。
特に何か面白い演奏だといふわけでもないのだが、クーベリック若かりし時期の颯爽とした指揮ぶりが想像できる。
盤は、葡萄牙AudiophileによるリマスタリングCD APL101.557。
1950年の1月から3月までのコンセルトヘボウ管絃團との演奏会で取り上げた現代ものの中には、Mica、Tasman、Landre、Badingsなどといふ聞き慣れぬ作家の名も並ぶ。いずれも交響的作品や協奏曲を紹介してゐる。此の中に、今日聴いてゐるショスタコーヴィッチのレニングラード交響曲が含まれてゐたわけである。クーベリックは1956年にも同じくコンセルトヘボウとショスタコーヴィッチの第6番を演奏してゐるが、これら以外には僕はクーベリックのショスタコーヴィッチを知らない。
第1楽章では打楽器協奏曲の様相を呈してゐるが、これがナチス独逸の露西亜進撃の様子には聴こえない。コミカル過ぎるのだ。コミカルなのだかシニカルなのだか分かり辛い此の作品だが、終楽章の最後に回想される第1楽章冒頭のテーマは、正に其のやうな印象を更に強調して曲を閉じるのだ。
特に何か面白い演奏だといふわけでもないのだが、クーベリック若かりし時期の颯爽とした指揮ぶりが想像できる。
盤は、葡萄牙AudiophileによるリマスタリングCD APL101.557。