浪漫亭随想録「SPレコードの60年」

主に20世紀前半に活躍した演奏家の名演等を掘り起こし、現代に伝える

エフレム・ジンバリストといふヴァイオリニスト

2007年09月22日 | 提琴弾き
アウアー門下の提琴家を多く取り上げながら、ジンバリストは初めての登場だと思ふ。1910年に、20歳でニキッシュ指揮するゲバントハウス管絃團で華々しくデビューした彼は、1949年には紐育で引退コンサートを開き、カーティス音楽院で後進の指導に専念した。弟子にはシュムスキーが居る。

今回入手したCDは、前回取り上げたトッシャ・ザイデルによるショーソン作曲「詩曲」のライブ演奏がお目当てだったが、クーセヴィツキとのブラームスの協奏曲が余白に入ってゐた(逆かも知れない)ので聴いてみることにした。

引退の3年前といふこともあってか、技術的には心もとない。しっかりしたクーセヴィツキの音楽とは対照的である。第1楽章の235小節でジンバリストが第2主題を歌い終える場面では、音程の誤差も半音くらいは許容範囲なのだらう。それとも本当に耳がお悪いのか、はたまた楽譜を覚え違えたのかよく分からないが、可能性はまだある。僕の耳が壊れてゐるのかもしれない。さらに、361小節からのスタカート、アクセント、付点音符のモティーフも独特だ。こういった解釈なのか、技術的な衰への為なのか、僕には分からないが、コルトーも晩年はこのやうなことをよくやってゐたのを思ひ出す。そして再び、470小節付近から音程の怪しい例の部分が再現されるが、今回も全く同じ不具合を生じる。それでも聴衆は、楽章が終わる度に惜しみない拍手を送るので聴いてゐて悲しくなる。

ジンバリストといふ提琴弾きは、ブラームスのやうな大曲よりも小品に真価を発揮するタイプだと思ふ。終楽章のやうにラプソディックな曲想だと持ち味が出てゐるやうに僕は感じた。特に第1楽章のやうに構築的な作品は聴いてゐて時間を持て余してしまふ。

レコヲドの方も放送録音ではあるが、いろいろと不可解な問題点がある。136小節から独奏提琴が第1主題を静かに歌う箇所でLP盤の傷のやうなノイズが延々と入るし、473小節には編集上での機械音だと思ふが「ピー」といふノイズも混入してゐる。

文句ばかりになってしまったが、クーセヴィツキ指揮ボストン響のブラームスはとても良い。同門のエルマンも晩年の演奏は精彩を欠いた。大曲の演奏は「今ふたつ」といふところも似てゐる。これは仕方のないことだ。

盤は、Eklipseが1946年3月30日の放送録音をCD化したものEKR CD1401。


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