浪漫亭随想録「SPレコードの60年」

主に20世紀前半に活躍した演奏家の名演等を掘り起こし、現代に伝える

盲目の鍵盤奏者ヘルムート・ヴァルヒャ「目覚めよと呼ぶ声が」

2008年12月21日 | 器楽奏者
ヴァルヒャは盲目の作曲家であり、鍵盤奏者だったが、1991年に亡くなった。今日、ヴァルヒャを聴こうと思ったのには理由がある。嫁さんが突然、失明したからである。失明と云ふのは「明るさを失ふ」の意味である。

日曜日だといふのに出勤してゐたところ、昼過ぎに嫁さんから緊急の電話が入った。だいたいこんな時間に電話が入るときはろくなことがなかった。今までの例では、嫁さんがダンプに追突されて病院に運ばれた、とか、息子が友達を溝に突き落としたとか、そういった内容だった。今日は何事だらう、と電話を取ると、急に両目の視力が無くなったといふ。「なぁんだ、生きてゐたのか」と休みをもらって帰宅すると病院に急行する。結果は、コンタクトレンズによる眼球への傷が原因の炎症だった。

目が見えなくなると悪いことばかりではない。最近、日に日に偉そうになってきた嫁さんが新婚時代のやうにしおれて(しおらしくなって)僕の腕にしがみついて歩いてゐる。こんなのは何年ぶりだらう。財布から千円札と言いながら一万円札を抜いてもばれなかった。CDを大量に注文しても分からないので大変助かる。しばらく失明してゐてもらいたいものである。

一方、嫁さんもまんざらでもなさそうである。といふのも、食事は寝ていれば旦那が作って洗い物まで済ませてくれるし、仕事も休んでじっと音楽を聴いて寝ていれば、それが最善の治療になるのだ。

更に、もっと根本的なことに気づいた。ものが見えるといふのは本当にしあわせなことなのか。ヴァルヒャは失明してからバッハの全オルガン作品を暗譜して演奏できるやうになり、とうとう「バッハの音楽から宇宙が見える」と言った。昔、井上陽水が「めくらの男が静かに見てる」と歌ってゐた。めくらにしか見えないものがあるのだ。そんなことを考えてゐて、ヴァルヒャのシュープラー・コラール「目覚めよと呼ぶ声が」を取り出したのだった。

ストップの選択によって趣の変わるオルガン作品だが、ヴァルヒャのコラールは旋律、対旋律、低音部など、各声部が混ざらない。はっきりと聞き分けられる音色で明快そのものだ。あまりにも淡々とことが進むので、少々冷たさを感じるところもある。好みの分かれるところだ。浪漫を追い求める僕には少し修行がかってゐて辛いところもある。廃墟と化した戦後間もない独逸国内で収録されたバッハ全集である。わかるやうな気もする。

盤は、独逸DocumentによるリマスタリングCD 223489。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。