第一次大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立って戦ったが、敗北した。1918年10月30日、連合国とオスマン帝国との間で休戦協定が締結された。
停戦の半年後(1919年5月15日)、ギリシャは小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。休戦協定においてトルコが占領を認めたのは2か所だけである。
①コンスタンチノープル
②ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を守る要塞。
従ってギリシャ軍のイズミル上陸は休戦協定の違反である。
ギリシャ軍のイズミル上陸後、今度はフランス軍が黒海沿岸部と地中海沿岸部に上陸した。ギリシャもフランスもトルコ内に領土を獲得する目的で侵攻したものであり、明らかに休戦協定の悪用だった。
トルコでは旧オスマン軍に代わる新たな軍隊が生まれており、この愛国的な新トルコ軍がギリシャ軍とフランス軍に立ち向かった。新トルコ軍は1918年5月19日、オスマン・トルコ軍司令官の一人であったケマル・パシャの呼び掛けにより成立したものである。
休戦成立後ギリシャが侵略してきたことにトルコ国民は怒っており、ケマルの新軍は国民の支持を集めた。「ギリシャ・トルコ戦争」についてはすでに書いたので、今回は英語版ウイキペディアの「フランス・トルコ戦争」を訳す。
=======《 The Franco-Turkish War》===== wikipedia 〈フランス軍、黒海沿岸へ上陸〉
トルコの降伏後、フランス軍が最初にしたことはトルコ領内の炭鉱の占領だった。当時燃料は石炭に頼っており、石油は使用が始まったばかりで、石炭ほど普及していなかった。石炭は重要な戦略資源だった。フランス軍は燃料としての石炭を必要としていた。石炭がトルコ軍の反乱に使用される恐れもあったので、フランス軍は炭鉱を占領したのである。
1919年3月18日フランスの2隻の戦艦が黒海沿岸の2つの港(ゾングルダクとカラデニズ・エレーリ)に兵士を上陸させた。上記地図参照。この2港は炭鉱地帯に近かった。フランス軍は絶えずゲリラ攻撃を受け、翌年(1920年)6月8日、カラデニズ・エレーリから撤退した。しかしフランス軍はゾングルダクには留まり、1920年6月18日都市全体を占領した。
〈コンスタンチノープル占領〉
1918年11月12日フランス軍の旅団がコンスタンチノープルに入った。翌年2月8日占領軍軍令官フランシュ・ドゥ・エスペレー将軍が到着し、占領行政を調整した。
フランス軍はコンスタンチノープルの占領で満足せず、アジア側に進出し、アナトリア半島の北西部の中心都市であるブルサを占領した。1920年夏ギリシャ・トルコ戦争が始まると、フランス軍はブルサをギリシャ軍に引き渡す形で撤退した。上記地図参照。
〈アナトリア南部の戦闘〉
1918年11月17日フランス軍15000人がメルスィンに上陸した。将校150人はフランス人だったが、兵士の大部分はアルメニア人志願兵だった。
フランス軍は内陸部に進み、アダナに本部を置いた。この地域はキリキアと呼ばれ、山地が多いアナトリアにあって平地であり住みやすい。港もあり、トルコ東部への玄関の役目を果たしており、戦略的な要地となっている。
中世においてアルメニア人の国家、キリキア王国(1198年-1375年)が存在した。フランスはアルメニア人を支援しながら、トルコ東部にフランスの領土を得ようとしていた。
メルスィンに上陸したフランス軍の直接の目的はオスマン・トルコ政府を解体することだったが、サイクス・ピコ条約を現実のものとするための布石でもあった。
キリキアを占領したフランス軍は1919年末、ガジアンテプ、マラシ、ウルファの3地域を占領した。これらの地域はエジプトから北上した英軍が占領していたのであるが、両国間の約束に従い、交代したのである。
フランス人総督がこれらの占領地を支配することになったが、トルコ人の抵抗運動に直面した。フランスがアルメニア人の野望を支持していたため、トルコ人はフランス軍を危険な存在と見ていた。フランス人将兵はこの地域について何も知らず、情勢を知るためアルメニア人民兵を活用していた。トルコ人は地元のアラブ部族と協力し、アフランス軍に反抗した。
トルコの新しいリーダーとなったケマル・パシャにとって、フランスはギリシャほど危険な敵ではなかった。
ケマル・パシャは周囲の者に語った。
「ギリシャの脅威がなくなれば、フランスはアナトリア南部に固執しないだろう。フランスの真の関心はシリアにある」。
フランスの総督は自分の占領地でトルコ人が反乱を起こしたことに驚いた。英軍が占領地を無力化していなかったことが原因だ、と彼は英軍の怠慢を責めた。トルコ西部におけるギリシャ・トルコ戦争でギリシャが敗北したため、フランスの計画に狂いが生じた。トルコは反撃する力がないだろうという前提でフランス軍は作戦を開始した。キリキアからウルファに至る地域の占領はアルメニア人志願兵部隊でじゅうぶんだとフランスは考えていた。しかしケマル率いる新トルコ軍は強く、新トルコ軍の存在に励まされ、戦線から離れた南部にはゲリラ組織が誕生した。。
1920年1月20日ー2月11日マラシのフランス軍とトルコ人反乱軍との間で戦闘がおこなわれ、その後フランス軍は撤退した。フランス軍には地元のアルメニア人も加わっていた。フランス軍ガマラシ市から去ると、数千人のアルメニア人住民が虐殺された。
フランス軍のアルメニア人兵士(Sarkis Torossian)は日記の中でフランス軍の裏切りを疑っている。
「フランス軍はケマル・パシャ派のトルコ人反乱軍に武器・弾薬を与える代償として、安全にキリキアから脱出することができた」。
マラシのトルコ人反乱軍は南部の他の都市もフランス軍から奪還し、トルコ領土の保全に貢献した。フランス軍は撤退を繰り返した末に、キリキアから去った。
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フランス軍はトルコを分割する目的でキリキアに上陸したが、トルコ人に撃退されてしまったのである。この例はいったん降伏した後でも、戦勝国に好き勝手をさせる必要はなく、軍事的抵抗が有効であることを示している。
キリキア作戦の失敗により、サイクス・ピコ条約に示されたフランス要望は不完全な形でしか実現しなかった。1923年のローザンヌ条約で決定されたトルコ国境とサイクス・ピコ協定を見比べれば、違いがわかる。
ローザンヌ条約の16年後(1939年)、フランス領シリア内の地中海沿岸部ハタイ県がトルコ領となり、現在に至っている。
ギリシャ・トルコ戦争におけるギリシャの敗北とフランスのキリキア作戦の失敗により、アルメニア人の野望も消えた。1920年のセーブル条約において、アルメニアはトルコ東端に領土を獲得した。これはフランスの後押しがあったからである。アルメニアはキリスト教国であり、戦時中からフランスはアルメニアを支援していた。
アルメニアは1923年のローザンヌ条約でトルコ東端の領土を失った。
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