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古代マケドニア王国 2

2025-04-30 03:29:50 | 古代

    【アレクサンドロス1世】

ピリッポス2世の父アムュンタス3世はアレクサンドロス1世)のひ孫である。

紀元前512年頃マケドニアはペルシャの宗主権を受け入れ、ペルシャの属国となった。アレクサンドロス1世の父の時代にペルシャ戦争が起きた。ペルシャの王ダリウスはアテネとエレトリア(エウボイア島西岸の都市)の征服を計画した。その第1段階としてペルシャ軍は紀元前492年トラキアを再征服し、マケドニアを完全な属国とした。しかしその後、アトス山の沖でペルシャ軍の船が嵐で難破し、作戦は中断した。(カルキディキ半島から三つの細長い半島が海に向かって突き出ており、一番北側の半島に、アトス山がある。)

翌年ダリウスはギリシャの諸都市に使節を派遣し、戦争が嫌なら服従せよと迫った。ほとんどの都市は服従を受け入れたが、アテネとスパルタは拒絶した。ダリウスはアテネとスパルタに対する戦争を決定した。紀元前490年、ペルシャ軍はキリキア(アナトリア南東部)を出発し、キクラデス諸島(アテネの南東の海域にある諸島)の島々を征服してから、エウボイア島に向かった。彼らはエレトリアの沿岸に上陸し、エレトリアを包囲した。6日間の包囲戦で、両陣営が多くの兵を失った。7日目に、エレトリアは門を開いて降伏した。続いてペルシャ軍はエウボイア海峡を南に進み、アッティカのマラトンに上陸した。アテネ軍は直ちにマラトンに向かい、マラトン平野の二つの出口を封鎖した。(マラトンはアテネの北東40km)。ペルシャ軍は突破を試みたが、5日たってもギリシャ軍を崩せなかった。ペルシャ軍は船に引き返し、海路でアテネに向かうことにした。最初に船に乗り込んだのは騎兵だった。騎兵はペルシャ軍の中で最強の部隊だった。続いて歩兵が船に乗りこもうとした時、これまで防衛に徹していたアテネ軍が攻撃に転じ、平野に押し出した。10,000のアテネ軍はペルシャの歩兵部隊の左翼と右翼を切り崩してから、中央の部隊を攻撃した。ペルシャ軍は総崩れとなり、港に向かって逃げた。戦場には6,400のペルシャ兵の死体があった、とヘロドトスは書いている。アテネ軍の戦死者は192人だった。ペルシャ軍がアテネに上陸するのを防ぐために、アテネ軍は急いでアテネに戻った。彼らは間に合った。ペルシャ軍の司令官アルタフェルネスは勝利の機会を失ったと考えて、引き上げた。

アレクサンドロス1世の時代に二度目のペルシャ戦争が起きた(紀元前480ー479年)。

ダリウスのギリシャ遠征が失敗に終わった直後から、息子のクセルクセスは再遠征を考えていたが、エジプトの反乱などがあり、実行が10年後になってしまった。アナトリア沿岸部には繫栄するギリシャ都市が数多くあり、エーゲ海の島々とともに、ギリシャの一部だった。ギリシャ人は独立心が強く、ペルシャの支配下にあるアナトリアは安定しなかった。ギリシャ本土を征服すれば、アナトリアの支配が完成するはずだった。

第2次ペルシャ戦争において、アレクサンドロス1世はペルシャ側の人間でありながら、戦争が始まる前から、ギリシャの諸都市に助言をした。ギリシャの諸都市はテッサリアの北東部のテンペの谷でペルシャ軍を迎え撃とうとしていた。テンペは小高い山に囲まれた盆地であり、狭い戦場だった。山の頂上に立てば、敵軍が盆地に入って来るのが見えた。テンペを戦場にすべきだと提案したのはテッサリアである。1万のギリシャ軍がテンペに終結したが、アレクサンドロス1世はギリシャ同盟軍の指揮官たちに警告した。「ペルシャ軍がテンペを通るとは限らない。別の谷間の道を選ぶかもしれない。クセルクセスのペルシャ軍は前回と違い、大軍である」。

アレクサンドロスの助言の結果、ギリシャ軍はテンペから引き返し、最初の戦場をテルモピュラエに変えた。

    《テルモピュラエの戦い》     

     battle  of  thermopylae/wikipedia

テルモピュラエの戦いに備え、フォキスはあらかじめ防衛を強化する土木工事をした。フォキスはの領土はテルモピュラエの南西にあった。ギリシャ軍の総司令官であるスパルタ王レオニダスは、テルモピュラエを経由しない山越えの道にフォキス兵1000名を配置した。紀元前480年8月半ば、ペルシャ軍がマリアコス湾の近くに現れた。ギリシャ軍の作戦会議で、ぺロポネソスの都市の指揮官は、ただちに退却してコリント地峡で戦うことを提案した。ぺロポネソス半島はコリント湾によって本土と隔てられており、島のようになっているが、コリント地峡で本土とつながっているため、半島である。それでコリント地峡はぺロポネソス半島への入り口となっていて、半島の防衛拠点にふさわしい。コリント湾の東端にあるコリントの船がエーゲ海へ行くためには、ぺロポネソス半島をぐるりと回らなければならない。コリントの指導者は船を地上に引き上げ、サロニコス湾まで運ぶことを試みたが、結局断念している。コリント地峡はこのような発想が生まれるほど狭く、防衛に適している。しかし、フォキスとロクリスにとってテルモピュラエを放棄することなど論外だった。(ロクリスはテルモピュラエの東の国)。

レオニダスはテルモピュラエの防衛を主張し、フォキスとロクリスを安心させ、スパルタとその影響圏から追加の兵を呼び寄せた。

クセルクセスはレオニダスに使者を送り、交渉による解決を試みた。「ギリシャ諸国の自由を認め、ペルシャの友好国として待遇する。ギリシャより豊かな土地への移住を許可する」。

レオニダスがクセルクセスの提案を拒否すると、使節はクセルクセスのメモを差し出した。メモには「武器を引き渡せ」と書かれていた。レオニダスは「我々の武器が欲しいなら、戦って勝てばよい」と答えた。 

レオニダスが考え直すことを期待し、クセルクセスは4日間戦闘を始めなかった。

ヘロドトスはペルシャ遠征軍の総数を300万と書いているが、半分は戦闘員ではなく、食料運搬や土木作業などの補助要員である。兵士の食料と水の問題を調べている学者は「ペルシャの戦闘員の数はせいぜい12万」と書いている。現在の学者の間では10万と30万の間で意見が分かれている。

一方、ギリシャ軍の数は1、1200という説(ヘロドトス)と7400という説(ディオドロス)があるが、いずれにしても随分少ない。ギリシャ軍の人数は少なかったが、テルモピュラエは道幅が狭く、大勢の兵士が展開できないので、ギリシャ側は充分対応できた。ギリシャ兵は武器と防具が重装備であるのに対し、ペルシャ兵は軽装備であり、接近戦ではギリシャ軍が有利である。またテルモピュラエの戦場は非常に狭く、ペルシャの騎兵は側面から攻撃することができない。昔はテルモピュラエの最も狭い地点の道幅は10メートルあったが、フォキスの人々が温泉の水を引き、道路の半分以上が水面下になり、最も高い部分だけが通路として残り、馬車1台がやっと通れるほどの道幅になっていたからである。また前の世紀にテッサリア軍の侵入を防ぐため、フォキスの人々は道の3か所に門を作り、その一の主門の両側は城壁になっていた。こうした防備に加え、ギリシャ艦隊がテルモピュラエの北側の湾を防衛していたので、ギリシャ軍は有利だった。ペルシャ軍は未知の土地で孤立していた。ペルシャの大軍は日々大量の食料と水を必要としており、日が経つにつれ深刻な問題になるはずだった。ペルシャに従属しているマケドニアは戦場から遠く、どれほどの量を負担できるか、わからなかった。近隣の住民から挑発することもできたが、これも長くは続かない。住民は食料を持って逃げてしまうだろう。

しかしギリシャ軍にも問題があった。沿岸を通ってテルモピュラエに至る道のほかに、山間部を通ってテルモピュラエの最も狭い地点の背後に出る道があり、ペルシャ軍の一部がこの山道を来たら、ギリシャ軍の有利さは消えてしまう。ペルシャの歩兵は山岳戦に慣れており、容易に山道を通ることができた。レオニダスはこの道の存在を土地の人々から教えられ、フォキスの部隊を配置したが、1000人だけで、少なすぎた。

テルモピュラエに到着してから5日目に、クセルクセスは5000の弓兵に矢を放て、と命令し、戦闘が始まった。弓兵はギリシャの部隊から90メートル離れた場所から一斉に矢を放った。ギリシャ兵は青銅のヘルメットをかぶり、薄い金属を張り付けた木製の盾を持っていて、矢は跳ね返され、効果がなかった。続いてメディア人とキッサ人の部隊10.000人が前進した。

(メディアはペルシャ北部。キッサはペルシャ南西部、上古の国家エラムがあった地方)

ギリシャの部隊は道が最も狭い場所の、城壁で守られた門を守備していた。彼らは大きな盾を持っており、一歩も退かない覚悟だった。彼らは大きな盾を隙間なく横に並べ、わずかな隙間から槍を突き出していた。一方ペルシャ兵の盾は小さく、頑丈でなく、槍は短かったので、ギリシャの戦列を崩すのは難しかった。ギリシャ軍は、一つの都市の部隊で門を守り、疲れる前に別の都市の部隊と交代した。それぞれの都市の部隊が順番に任務に就いたので、守備隊はいつも精強だった。戦闘が始まると、多くのメディア兵が戦死した。クセルクセスは心配になり、何度か椅子から立ち上がり、戦況を観察した。ペルシャ軍の最初の攻撃は全滅に近い結果となり、ギリシャ側はスパルタ兵が2ー3名死んだだけだった。惨憺たる結果を踏まえ、クセルクセスは第二回攻撃には、精鋭部隊(10,000人)を送り出した。彼らは「不滅の部隊」と呼ばれていたが、初回と同じ結果に終わった。


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