武久塾

介護を受ける者として感じたことを徒然に

これからも、、、

2019-04-30 09:48:16 | 武久の視線
退院して自宅に帰って来た時
窓の外に通学する子どもらや通勤する車などを眺めていた

ベッドの上からそれらを見ている私
生命保険で死亡と同じ状態とされた私

住宅金融公庫で返済を免除された私
国から障害者年金を頂いている私

家計的には助かるのだが、、、
社会で私って何? 社会のお荷物?、、、

そんな想いで
自分の体験の紙芝居を創り保育園に訪問したり
PC操作をリハビリで覚え、私の視線をネットで発信したり

小中学生に福祉学習枠で自分の体験からの気づきを伝えたり、、、
未来貢献を掲げたNPOを立ち上げたこともあった

四肢麻痺になってから
私のやらなければいけない、と思ったことをやった来た
評価とか、結果とか何も望んでいる訳ではない

やらなければいけない、と思ったことをやって来た
これからも、私のやるべきことをやってゆくのだろう。

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ブログ名変更

2019-04-26 08:02:05 | 武久の視線
武久塾、、、名前の由来


私は今から10年くらい前
あるご縁でリハビリ専門学校の非常勤講師をやらせてもらっていた

非常勤講師とは聞こえはいいが
年1回、生徒さんの前でお話をするようなことだった

その授業の初回の日に熱い学生さんと出逢った
彼は一度、社会人にはなったものの捨てきれぬ志があり
理学療法士になろうと専門学校で学んでいた若者だった

彼は私の話に感銘を受けたと在学中
春、秋ぐらいに後輩を数名連れ我が家で勉強会として私の話を聞いてくれた
その彼が我が家での勉強会を「武久塾」と名づけてくれた

当然、彼が卒業し我が家での勉強会は消滅し
非常勤講師も専門学校から大学へ変わる時を期に自然消滅

今でも
その熱き学生さんだった男は近くに来る時があれば顔を出してくれる
彼は専門学校の教壇に立ち、解剖学の著書もある立派な理学療法士となった。


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カウンセリング

2019-04-25 10:24:14 | 武久の視線
なぜ?私がカウンセリングなどに興味を持ったのか?と言えば
今の医療や介護、福祉って身体的な痛みや身体的困りごとなどに
終始している現状があるからです

患者、利用者の傾聴などとはうたってはいるものの
実際、業務多忙のため患者や利用者の心の痛みに対するケア
などは行われてないのが現場なのです

そんな業界の中にカウンセリングスキルを身につけた
医師、看護師、介護士、ケアマネージャなどが現れたなら
WHOが唱える「全人的」に近づけると思うからです


この身になってつくづく思います
人は体と心とで出来ている、体の痛みもあれば心の痛みもある

体の痛みを治してくれる医療
心の痛みを治してくれるカウンセリング

体と心、どちらも治癒することが出来てこそ
本当の意味での「人を治すこと」となるのだと思います

カウンセリングスキルは、これからの医療や福祉などの
重要なスキルになる、と私は思います


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認知症ゆりかご論

2019-04-23 09:49:32 | 武久の視線


こんなことを書くのは不謹慎と百も承知の上に書く

認知症、当事者も家族も世間でも不幸にとらえがちだが
しかし、一つの考え方として
私は、ものは考えようみたいに考えてみた

老いてゆく過程の中で頭がクリアーであればあるほど
この先の不安や死に対する恐怖などが膨らむ

機能的に出来なくなることへの苛立ち、ストレス
孤独感、疎外感、僻み妬み、、、心労となる色々な感情が湧く

ここで話しはガラリと変わり
あなたは母の乳を飲んだことを覚えているだろうか?
赤ちゃんの時おんぶされたこと、おむつを替えたこと

それらを覚えている人は、まずいない
自分が生まれて来た頃のことを自分は覚えていない

老いて逝く時も認知病で分からなくなる
つまりは、人は生まれ「ゆりかご」の中で記憶なく育ち
逝く時も認知症という「ゆりかご」の中で記憶なく逝く
そんな風に私は考えてみた

ちなみに
脳血管疾患を患った私は、認知症になる確率は高いらしい。






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「すみません・ありがとう」

2019-04-19 09:57:23 | 武久の視線

これは私がデイサービスに通っていた頃の体験

人からしてもらったら「すみません」
人からしてもらったら「ありがとう」
それくらいの常識は息子たちにも教えてきた

しかし
介護される身となればどうだろう、してもらうことは常となる

スタッフに何かをやってもらう度に
「すいません」「ありがとう」と利用者のみなさんは言っていた

ほぼ毎日通い、嚥下障害しかも声があまり出ない四肢麻痺の私は
してもらう度にそれらを言っていたら、それだけで疲れてしまう

世間話しなどは殆どしなく愛想笑いもしない私は
スタッフや他の中途障害者からごう慢な奴と見られたらしい

ある日、同い年ぐらいの中途障害者の人から
「お前、空気読めよスタッフも言っているぞ、あなたは何様のつもりだって」

介護される人はやってもらったらいつも
笑顔で「すいません」「ありがとう」と言うのが普通
そんな風潮がそのデイサービスにはあるみたいだっだ。

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初心忘るべからず

2019-04-10 11:40:32 | 武久の視線



医療、介護、福祉などの人たちの中で
「私はいい事をしている」「他人から感謝される仕事をしている」

それらの気もちなどに対して
自己満足だとか、プロ意識に欠けるとかとか言う人もいますが


私は最近こう思う
基本的に人はどう思うのかは本人の自由だし

そう思うことによって仕事にやりがいが出たり
モチベーションが上がるのならいいのではないかな、と

たとえ自己満足だとしても、誰の人生でもなく
その人の人生なのだから自分で満足できるならよいと思う


そんな初心的な純粋な気持ちを軽視したり、否定的だったり
プロ意識不足にみたり、そんな見方に違和感を感じる最近の私です

人手不足の業界、否定するより
認め合うことが大切になってくるのでは?
と私は思います。

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寂しそう

2019-04-04 16:46:33 | 武久の視線

私はベッドで生活しているいわゆる
「寝たきり」と呼ばれる状態なのだろう

動く、移動することが少ない者が感じる感覚

場面、場面が変わる普通の人にとっては
瞬間、瞬間の点を生き
その点がつながりが線になる感覚なのだろうが


私ら寝たきりの者の感じる感覚

場面は変わらず一か所に居るのだから
点を生きる、と言うより
線を生きている感じ
線をボーっと生きている感じがする


ここからが大事なのだが
その独りボーっとしていることが、時として
傍目には寂しそう、と映る場合が多いみたいだが


私の経験から、いたって本人は
心地よく感じている場合が多い、と私は感じる。

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不幸中の幸い

2019-04-01 08:28:45 | 武久の視線

死亡(または死亡に準ずる重度障害者)時に受け取る、、、こんな記載が
私の入っていた生命保険証書に書いてあったように記憶している

二十歳前後に加入していた生命保険
四十何歳かで月の掛け金がかなり上がる通知をもらっていた

私は考えた、ここまで何もなく来たのだから死亡時より入院に
ウエイトを置いた少しでも掛け金の安い通販の保険でもいいのでは、、、

実際、説明書及び加入手続きみたいなものを初秋ごろに取り寄せていた
しかし秋と言う季節、釣りバカの私にはとても忙しい季節だった
取り寄せた通販保険書類は封も切らず机の上に、、、

そして、その年の秋に私は脳幹出血に倒れた

結果的には「不幸中の幸い」と思えるような事だった
目先の損得勘定で生命保険を入院保険などに変えていたなら、、、

備えあれば患いなし、そんなことわざが身に染みた出来事だった
もしもあの時、保険を変えていたなら、、、ゾーとなるお話しでした。



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