武久塾

介護を受ける者として感じたことを徒然に

医療と介護

2019-03-21 09:52:04 | 武久の視線
「人の命を守るのが医師なら 
人の生活を演出するのが介護 」
(このことは、私の体験から感じたことです)


全ては命があればこそ、、、とは言うものの
脳幹出血に倒れ、完全四肢麻痺の状態で意識がはっきりした時
命が助かってよかったとは、私は思わなかった

こんな身体では生きていても仕方がない、死にたいとすら思った
しかし、動かないから死ねなかったのだけれども、、、

まぶたしか動かない、しゃべれないまま数か月を過ごしたのだが
その間にも、反応がない私に色々話しかけてくれる看護師さん
身の廻りのことや、胃ろうをセットしてくれる介護士さん

聞かせてもらった音楽や
ギャッチアップして見せてもらった窓からの風景とか
そんなものに触れた時、(ああ、生きていてよかったなぁ)と思えた

私が考えるのに
「長生きしてよかった」にもそんなことがあるのだと

長生きしたとて
生きがいや張り合いがなくては、長生きしてよかったにはなれない

生きている、ということを実感できなければ生きていても仕方ない
長生きしてよかった、にはなれない

その人の、人生の物語りの最終章を演出してくれる
高齢者医療、高齢者介護であって欲しいと私は思っています。


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諦めの境地

2019-03-15 14:00:12 | 武久の視線

感謝して生きる
生かされている、、、

このようなフレーズが私みたいな立場には相応しい言葉なのだろう
大病を患った、患っている、体が不自由だ、、、
そんな被支援者の人たちは境地みたいなところに落ちつかざるをえない

誰だって健康な方がいい、健常の方がいい
しかし、いくら悔しくとも辛くとも、ならないものは諦めるしかない
諦めの境地に付加価値をつけ
感謝とか奇跡とか、生かされているとかの言葉になるのだろう

その当事者の心境は私にも当然、理解し納得もできるのだが
感動ポルノではないが医療や福祉従事者まで
当事者の諦めの境地を鵜呑みにし美化するのは解せない

諦めの境地は当事者がそう思うしかない一角の想いなのだ
その一角の下には未だに膨大な葛藤や苦しみ、辛さなどがある

専門職の人たちまでも諦めの境地を悟りの境地みたいに考え
感動ポルノ的になっている、今の風潮にあえて書かせて頂た。

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最近思う

2019-03-01 10:02:00 | 武久の視線
最近思う

マスオさん状態で家内と一緒になり
私は通勤時間や勤務体制などから

職場の近い実家に単身赴任みたいな生活となっていた


それなりの苦労はあったものの
独身気取りではないが
趣味や娯楽に好き勝手なところはあったと思う


30〜倒れる44までそんな生活だった
だから結婚したとは言え普通の生活(毎日帰宅する)

ではなかった、マスオさんで帰るのは
週/1,2回が月/1,2回とかになり、、、


現在は家内から介護され毎日一緒
一対のような生活、帳尻合わせではないが

私の人生、こんなのも有りだな、とも思う

タラレバは無しなのが人生だけど
あのまま好き勝手に生きていたら

家内のことは、こんなに深くは知らないでいただろう。




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