武久塾

介護を受ける者として感じたことを徒然に

訪問サービス

2019-06-28 16:37:42 | 武久の視線


介護保険第二被保険者の僕
40代の頃より介護保険の利用者となる

介護保険は高齢者が主体
40代の頃、通った介護予防のリハビリ系のデイサービス

高齢者の中に40代、当然のことながら施設では浮いた存在だった
ストレスを感じながらもリハビリが出来るというだけで数年通った

今は在宅で訪問入浴と訪問リハビリを利用し生活している
デイサービスと訪問サービス、両方経験した僕は思う

施設などを利用する場合は施設側が主役
訪問サービスを利用する場合は利用者が主役

スポーツで言えばホームゲームとアウェイゲームのようなもの

思い起こせば、施設側のタイムテーブルなどに合わせなければ
我がままとみなされたりもしていた

訪問サービスで生活する今は自由感のある生活を送っている
これは

医療の入院治療と在宅治療の違いにも当てはまるものに思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お世話

2019-06-26 10:33:52 | 武久の視線
相互関係的な「お世話」というもの


介護も保育も世間では「お世話」とよく表現する
お世話の語源がどんなものか僕は知らない
僕の捉え方は語源的には当然、誤りなのだろう

ただ、僕が考えるお世話は相互関係的なもの

お世話してもらう方は当然のことながら助かる
しかし、お世話する方も感謝されたり

他人のためになることにやりがいを感じたり
お年寄りが好きだったり、子どもが好きだったり

労働条件がどうのこうのは良く分かりませんが
「お世話」するということの中には、そうした相互関係が存在すると思う

つまりお世話には
「おたがいさま」の精神が流れている
、と僕は感じるのだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震

2019-06-23 14:21:07 | 武久の視線
以前の「妬み僻み」について
今回の地震体験と絡めて考えてみた

障害者になって初めての
しかも人生の中で差最大級の地震だった

元気な頃の地震と違って
何処にも逃げられないという身体とでは全然恐怖感が違った

自力で避難の出来ない地震
家内は僕に覆いかぶさり「父さん大丈夫だからね」

揺れが収まってから消防団の方への呼びかけ
必死さを感じた、一対であることをしみじみ感じた

今回の地震で感じた日々の儚さ
それ以上に感じたのは二人の「のどかな日々」の大切さ


この暮らしの充実感に
他に対する僻みや妬みなどは無意味なものに思った。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳卒中

2019-06-22 09:44:30 | 武久の視線
脳卒中を患った人にも、さまざまな後遺症の方がいる

たとえば
僕みたいに大きく運動障害が残った人もいれば

運動機能にはあまり後遺症が残らなくとも
高次脳機能障害と言い脳機能に障害が大きく残る方もいる
リハビリなどを経て殆ど健常者となり完全社会復帰した方もいる

脳卒中を患っても社会復帰している方たちが
「死ぬこと以外はかすり傷」とか脳卒中を明るく語ったり
脳卒中、そんなのへっちゃら、みたいなのはどんなものかと?

別に脳卒中を売りにしなくともよいのではなかろうか?
どう生きるのかは、その人の自由なのだが


脳卒中に苦しみ悲しみ
脳卒中へただならぬ感情を持つ人は全国に沢山いる




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しさ

2019-06-17 12:06:22 | 武久の視線
「楽しくなければ人生じゃない」とはよく聞くフレーズ
しかし世の中には僕も含めて楽しめない人は沢山いる

たとえば不治の病の人や僕みたいに動けない人とかとか
一般的に言う「楽しさ」とは疎遠の人は沢山いる

しかし僕の場合も「喜び」を感じることはある
僕は詩などを書いてネットで発信して社会参加している気分になれたり

心の授業で生徒さんの前で話し感想などもらったり
単調な日常なのだろうが家内と送れる日々にしみじみしたり

喜びを感じ幸せになれる

しかし、世間的にも業界的にも
楽しくなければ、楽しませねば的な考えが強い気がする
笑えないこと、楽しくないことが罪悪感になっている気がする

少なくとも何かしらのハンディキャップを持っている人たちが
そんなに楽しんだり笑顔になれたりはしないだろうと僕は思う

笑ってなくとも楽しんでなくとも
患者や利用者、その家族や当事者などは

幸せを感じ生きている場合が多々ある気がする。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感謝

2019-06-15 10:20:21 | 武久の視線


医療、福祉従事者の方から、僕ら夫婦との関り当初などに
必ずと言っていいほどに言われる言葉がある
「いい奥さんだよね」「奥さんに感謝だね」「奥さん大変よね」などなど

僕も微笑みながら「そうですね」と相づちうつものの
介護してもらっている僕が感謝をしていない筈もない
否、言葉になんか表せない気もちがあるのも確かだ

家内は俺に「動けない父さんの方がご苦労よね」とか言う
まっ、その辺は置いておいても

家内を称して、みなさん
「一生懸命な人だよね」「がんばる人だわね」、、、
確かにそうなるのかも知れないが

僕から見た家内は、僕が元気な頃から
倒れた僕には増してなのだが、家族や大切な人に対して

一生懸命と言うよりは必死なのだ
口下手な彼女は自分の想いを伝える行動に必死な人なのだ。

(↓やんちゃ親父だった40歳頃)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妬み僻みの対処

2019-06-09 10:57:14 | 武久の視線

以前ここで中途障害者は喪失感との闘いだ
みたいなことを書いたつもりだけれど、、、
喪失感っていうものは時の流れと共に慣れてゆくものに実感する

が、いつまでも周期的に心に湧く「妬みや僻み」には悩まされる
それは些細な出来事や些細な言葉、些細な、、、

他人からみればホントに些細なことから負のスパイラルに落ちる
いじけたり憶測したり、言葉を荒げたり自暴自棄に落ち込んだり

分ってはいるつもりなのだか、この感情なかなか手ごわい
そんな時に頼りになるのは、同い年の家内なのだ

僕の精神状態に合わせ言い合ったり、なだめたり
そして終いにはまた笑顔に戻れる、それを現在は三月周期位にくり返す

僕は思う
この周期的に繰り返す「妬み僻み」を制する者は中途障害を制す! と。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の授業

2019-06-08 09:28:03 | 武久の視線
「心の授業」    武久ぶく


どんなにつらくとも
どんなに悲しくても

ものごとの見方を少し変えてごらん
すべてのことは、ものは考えようなのだよ

自分だけ不幸だとか
自分だけつまらないと思ったなら

喜びを自分の心の中に探してごらん
楽しい事だけが幸せではないのだからね

どんな時でも
どんなにつらくとも
手をのばしたら君はもう独りなんかじゃないよ


夢はかなえることが大切なのじゃない
夢のためにがんばることが大切なのさ
人生はあきらめなきゃなんとかなるものだよ



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

障害者だから、、、

2019-06-05 09:14:45 | 武久の視線

障害者でも出来ること
とは言っても俺に出来ることは殆どない

しかも障害者より健常者が上手いことはあたり前
その葛藤の中、数年後たどり着いたのが
障害者だから出来ること」もある筈


障害者にしか出来ないこと、、、
それは障害を見て感じてもらうことだった

俺は倒れる以前から
社交的ながら大人は苦手だった

対人関係はわずらわしいかった
独りで釣りとか車の中で読書とかパチンコとかが好きだった

しかし、息子らにせよ子どもは大好きだった
子どもたちの生きた教材になりたかった
とは思ったものの


地域の教育委員会などは門前払い状態
そこで、やっとことさたどり着いたのが
地域社協の福祉学習枠だった

しかし福祉学習とは言えど学校の授業
すんなり行く筈もなかった       (つづく)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめ問題

2019-06-04 13:47:46 | 武久の視線

いじめ問題は子どもたちの世界だけではなく
大人の世界にもハラスメントなどとして存在します

介護の世界などでも
子どもたちの世界でも虐待なども後を絶ちません

強い者からのストレスは
水のように強い者から弱い者へと流れていきます

強い者が弱い者へストレスを発散するいじめの構造は
人の心に根付く影みたいなもので
いつの世も少からずやあったものと思います

いじめは
どんな理由があろうとも許される行為ではありません!

がしかし、人の性として存在するのも確かです
撲滅を望みますが、押さえ切れぬほど至る所より煙は上がります

僕は「心の授業」という
僕の体験からの気づきを伝える講話の中

挫折や逆境に負けない逞しい人となって欲しいことを
思春期の生徒さんたちに伝えさせてもらっています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする