武久塾

介護を受ける者として感じたことを徒然に

強迫観念

2017-07-30 12:05:27 | 武久の視線
障害者は感動ポルノ、、、
僕を見て、どう思うのかは他人の自由なのだ思う
相手が思っている事を僕は、どうこうしようとかは思わない(犯罪なら別だが)
実際、人の抱いた感情を変えることなど、僕は出来ないことと思っている

障害者、患者のポジティブさや「笑顔で」とか「周りの人に感謝して」とか
「感謝して生きる」「生かされている自分」、、、そう思えた当事者もいるのだろう

どう思うのかも障害者や患者の自由
そして、それを見聞きした方々が感動するのも自由

ただ、専門職の方々が感動した前向きな障害者や患者を讃え
障害者や患者当人にストレイトに伝えたならどうだろう?
僕には、当事者はこうあるべきみたいな姿勢を示唆されているように感じる

 障害者や利用者は「明るく楽しく元気」にしていないと駄目なの? 
そんなことを感じさせられた場面が僕には多々ある

望んで暗くなりたい人や孤立したい人、ぐずぐずしたい人などいない
そこには経緯的なものや性格的なもの、痛みがあるか?ないのか?とか
生活環境など、色んな要素、色んな原因があっての今の状況なのだろう

感動ポルノ、、、是非はともかくも
専門職と呼ばれる人たちは、自分の中で感動するのは自由なのだろう、が
大勢の大変な患者や障害者などに関わった経験をもっていても

そのままその人たちの事例を比較に出し当事者に話したり
障害者も高齢者も一緒みたいな扱いの発想になっていたり、、、

目の前の患者や障害者は
専門職の経験や感動、発想の偶像を押付ける者ではない







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気がつけば、、、

2017-07-26 09:35:48 | 武久の視線
脳卒中や事故などの中途障害者の最大の特徴は
段階的なものはなく、日常の生活から気がつけば障害者になっていた
そんな現実との直面なのだろう

先の人生で、事故や病気による早死を想像したことはあっても
(もちろん僕もそうだっが、、、)

自分が障害者になることを想像する人はいない
まして僕は、意味する状態など分らなかった重度障害者

想像したこともない自分の姿、、、それが中途障害者なのだ
中途重度障害、、、受け止めるのが精一杯で、僕は受け入れる事は出来ない

難病や障害、終末期に関して、その方のポジティブさや感謝、愛、希望など
キラキラした部分には、みな好感をもち、感動したりもするが
ドロドロした心や、愚痴や葛藤には寄りつこうともせず、嫌悪感を抱く人がほとんど
(世間はもちろん、専門職の方の中にも、障害者の方の中にも、、、)

どう感じ、どう思うのかは、人それぞれの自由なのだから、そこに噛みつく気はない

ただ、楽しむ気もちなどを持てず、夢中になることもなく
充実感なんて感じることなく、欲も湧かず、夢、希望などが持てなくとも

幸せだろうが、不幸だろうが、そんなこととは関係なく
生きてゆかねばならぬ人たちは、この世にたくさんいることを覚えてて欲しい。







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中途障害者として

2017-07-17 14:17:47 | 武久の視線
制度上部類分けの介護保険第二被保険者、そこに異を唱える気はない
しかし、介護保険=高齢者、在宅医療=看取り医療、そんな業界観念の強い中


40歳以上65歳未満の16特定疾患の中途障害者は
生きづらさ、居場所のなさなどを感じるだろう
躰のケアより、心が病んだり、引きこもったり、、、心の部分が大切になってくる


そもそも中途障害者場合、意識回復後から機能の喪失
今までの暮らしの喪失、人生の絶望感、、、膨大なグリーフ(喪失)から始まる


中途障害者は、そのグリーフとの闘いと言っても過言ではない
実際、専門職から見れば障害を受容している様にも見える僕でさえ
大なり小なりの喪失感とは、受傷時より毎日向き合っている


専門職に、死別のみのケアと誤認されがちのグリーフケアきちんと理解すれば
第二被保険者、中途障害者にとっても救世主になれる、と僕は思います。



(切り絵 章魚庵作)



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「自分だったら、、、」と考えられたら

2017-07-09 15:17:38 | 武久の視線
患者、利用者の話しを聞く
いわゆる傾聴する、、、大切な事なのだろう



しかし、傾聴するのと、真に受けるのとは違う
FBやブログなどをやっていて、たまにだけど目にする事がら


「私の関わっている利用者さんは病気になってよかったと言ってます」
「私の関わる方は障害者になって幸せと言っています」


確かに、その方たちは病気や障害者になって
気がつけた事が沢山あるのだろう、僕自身気づけた事は沢山ある


失くすともらえるものがある
失くさないともらえないものがある、と僕は思っているのだが、、、


それとこれとは話は別で、たとえ「よかった」「幸せ」と言っても
起きてしまった事は仕方ないので、あとは前向きに考えるしかない、と出る言葉


病気になってよかった、だとか、障害者になって幸せだと思う
そんな言葉を真に受ける支援者は如何なものかと思う


僕はそう言った支援者にたずねてみたい
「あなたは病気になりたいですか?」「障害者になりたいですか?」と


利用者、患者は特別な人でもなく、あなたと同じ気持ちの人間です 

もし「自分だっら、、、」と考えられる事が出来たなら
答えはおのずと生まれてくる 
、と僕は思います。







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憂鬱、葛藤、心のケア

2017-07-04 10:49:46 | 武久の視線
僕みたいなベッドの上が日常の在宅介護生活を送る人は沢山いるのだろう
僕は介護保険第二被保険者として、ケアマネージャーのプランで
訪問入浴、訪問リハビリ、用具リースなどの訪問サービスを利用して生活をしている


担当医との連携も取れていて、僕の躰をケアしてくれている
しかし、以前このブログにも書いたが「人は体と心で出来ている」


病気は薬で安定してても、衛生的に入浴で保たれていても
訪問リハビリで多少残る運動機能が維持されていても
ベッドの上が日常の僕には、この躰になってからの慢性的憂鬱がある


書き出せるようなものではない複雑、複合的なものだろうが
その憂鬱と向き合うのは自分自身しかいない、自分で葛藤するしかない
そうやって15年あまり暮して来た、否これからもそうなのだろう


しかし先日スピリチュアルケアというものを目にした
これが介護保険のケアとして導入できるのか?
都会と地方と言う地域格差に阻まれるものなのか?


僕のことは別にしても、終末医療カテゴリとは別に
僕みたいな憂鬱を抱える人は在宅、病院問わず
全国には沢山いるはず(生き地獄状態に感じる人もいると思う)


その人たちが新興宗教とかオカルト商法にだまされたり
はたまた引きこもり、自死、、、そんなことにならぬように


本人、介護家族にも必用に応じて心のケアを導入できる
医療、介護保険在宅生活であって欲しい
と僕は思う。



(撮影 介護フォトライター 野田明宏)

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