武久塾

介護を受ける者として感じたことを徒然に

キャリア

2017-11-24 09:56:01 | 武久の視線
最近起きた有料老人ホームでの事件 
入居者が風呂で溺死したように職員が偽装殺害した事件
被害者の方は校長先生をしたり社会貢献も多くした方らしい

僕はこの事件の原因追究などをする気はない、それなりの知識も持ってない
ただ、僕が思ったことは(どんな素晴らしい生き方をしてきても最後がこれでは、、、)

運命の理不尽さと空しさと、一つの僕の体験を思い出した
僕が介護予防施設のパワリハデイに通ってた頃に介護スタッフに言われた

「介護を受ける人は高齢者だろうが、中途障害者だろうが、みんな一緒」
彼女はどういう意味でみんな一緒と言ったのかは聞かなかったし分らないが

僕は思った、ここに必要なのは介護度
どんな人?よりも、介護度いくつの人?が大切なこと

医師は当然ながら病気や怪我「命」を最優先する
そのように介護受ける人は介護度最優先なのだろうか?


「病気を観て人を見ず」「介護度を観て人を見ず」?「運動機能を観て人を見ず」?

患者や利用者、入居者などの、今まで送って来た人生って何なんだろう?

医療や介護などの前では
その人のキャリアなど関係なく、人はみな公平、ということなのだろうか?、、、。




(写真提供 「風の記憶」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世間話と対話

2017-11-18 09:52:20 | 武久の視線
コミュニケーションの潤滑油としての世間話は大切なものだと思う
しかし世間話は会話にはなっても対話にはならない

僕が介護保険のお世話になり、関わってきた人の中で
対話をした、と感じた人は数えるぐらいしかいない

用件以外は世間話に始まり、世間話に終わる場合がほとんど
困りごとは聞かれても、悩みごとなどには話が及ばない

よく使われる「寄りそい、、、」「その人らしさ」とかは
世間話の中に浮かび上がってくるとは思えない

医療にせよ、介護にせよ対人間のもの
人間は肉体と心とで出来ているもの

対話する、、、心と心が向き合える空間


世間話だけでは寄り添いが構築されたとは思わない
たとえ何人の人が関わっていても対話がない限り痛ましい事件などはなくならない

心と心とが向き合う対話の必要性
社会的にも同じことが当てはまる現代だと、僕は思う。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「何でも言って下さいね」

2017-11-05 10:45:31 | 武久の視線
老いてゆき足腰が弱くなり
階段の上り下りや立ち上がりなど、自分一人での力では困難になる

そんな状態になると、他人から介助してもらうこととなり
介護申請などで要介護とみなされ、介護度というものがつく

制度的なものは改正もあるだろうし、その年代で違うのだろう
ここでは、その介助してもらう、介護をうける心もちみたいなものを書きたい

他人から介助してもらう、介護をうけるということは
他人に頼まなくてはいけない、ということ

僕も元気に働いてた頃は、他人に頼むというのは苦手だった
頼むぐらいならたとえ少し無理をしてでも一人でやってしまうタイプ

そもそも人は他人に頼む、という行為は苦手なものなのだろう
しかしながら、一人では立てない、歩けない状態では他人に頼むしかない

他人に頼むということ、意外に気も、エネルギーも使う

まして、忙しそうだとなかなか言い出せない
(介護をうけ15年経つ僕でさえ、忙しそうな時の妻には気をつかう)

施設などでよく耳にする「何でも言ってくださいね」
とは言われても、頼みごとなどはなかなか言い出せない

その辺の心もちを理解していないと
頼む方も、頼まれる方もなかなかスムーズにはいかない。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする