3日前の日経新聞の一面のコラム、春秋を読んでいて、なるほどと思いました。
冒頭の記事で、下の内容(新聞記事をそのまま使うのは問題だが、このブログを読んでくれるのは、北九州の釣りバカの皆さんが大半でご勘弁を)
日本経済新聞朝刊 2019/11/25 春秋
「日本にも旧石器時代があったことを証明した群馬県・岩宿遺跡の発掘から今年は70年の節目だ。地元の公民館などでは狩猟採集で生活していたこの時代に関する講演会が相次いで開かれ、今月そのひとつに参加した。そのなかで興味深い海外の研究成果の紹介があった。
旧石器人は、未知の土地での獲物の探索と、勝手知ったエリア内での獲物の居場所を予測し仕留める行動の2つを、並行して進めていたという。同じ土地にとどまったままでは食料資源が枯渇するので、新天地の開拓は欠かせない。ただし、当座の生活を考えると、高い確率で獲物を手に入れる工夫も怠れないというわけだ。
いま企業にもとめられることと、かなり似ている。激しさを増す競争に勝つにはイノベーションの種を求め、土地勘のない分野にも出ていって技術や人材を取り込む必要がある。同時に、目先の利益を確保するにはこれまでの経験を踏まえた製品改良や効率化が外せない。旧石器時代と同様、両刀遣いが生存の条件といえる。
狩猟、農耕、工業、情報社会と発展してきたが、生き残るための行動には一定のパターンがあるのかもしれない。旧石器時代と現代では探索するものが違うが、進むべき方向を示すリーダーの役割が重要なことも共通している。人工知能(AI)が広がる未来社会「ソサエティー5.0」でもこの点は、変わらない気がする。」
私の孫の一人は、最近耳にするようになった発達障害と言われる変わった子供。最初に発達障害と聞いて、驚いたり、心配したが、時々一緒に遊んでいると、この子は天才じゃないのかと、驚くことも。
妻と、車で農園に行くついでに、この孫(2歳のころ)を後部座席に座らせて、信号待ちで、妻と話に夢中になっていると、たどたどしい日本語で、「青よ」と。振り向くと孫が、信号が青になったから、発車しなさいと注意してくれたもの。
夕方、孫の住んでいた横浜の広い自然公園を散歩していて、よちよち歩きの孫が、空を見上げて指さす方を見ると、空に小さくジェット機が見える。
夏休み、孫たちでにぎやかな居間で、バアチャン(妻)がゴキブリを前の日退治したことが、孫たちの話題になり、一人が面白おかしく新聞でゴキブリをバアチャンが叩く真似。するとこの発達障害と言われてる孫が、そうじゃないと、バシン・バシンと全身を使った迫真の演技で、妻のゴキブリ退治をこと細かく覚えていると驚嘆。
常に遠くに目を向けているし、情報が正確豊富。
私が学生の頃、なんの準備も無しに、春の連休時の会津磐梯山に登り、山頂付近の深い雪と霧で迷子になりかかり、あわや遭難となった時、同行の一人が、難なく道を開いて、無事下山したことがある。
霧の向こうにある太陽が彼には、見えて、太陽との関係で方向を確かめれたものと思う。(通常の光がまぶしく感じる方もいるらしい)
何年か前、四国今治に墓参りで戻った時、地図を一目見るだけで、あとは地図を見なくてもそこにドライブできるという、高校時代の同級生と飲んだことがある。詳しく聞くと、子供の時から、太陽との関係で方向が自然に分かっていたとのこと。
5年ほど前、まだ若い人の就労支援の事務所に顔を出していたころ、若者の支援組織の合同会議があり、大人数の前で、「発達障害は障害ではない、個性。名前が悪い。疾風怒濤型とか、変えた方が良い」といったが、皆さん、何をいっているのかとブーイング。
3歳の男の子は、全員発達障害、成人も5%が発達障害とのこと。
能力が欠けている障害だと、長い歴史で、自然淘汰されて、激減するはずだが、5%もいるということは、社会にとって必要なグループである証拠でもある。
それで、冒頭の「春秋」だが、新しい猟場を求めて冒険の日々を過ごす役割を果たせるグループ(発達障害という妙な名前)と、安定した猟場で、確実に獲物を持ち帰るグループ(常識人)に旧石器時代に役割分担が出来た、種族が生き残り、出来なかった種族は、環境変化とともに絶滅したと考えてよいのでは。
歴史時代になっても、戦国時代や、明治維新の動乱期は、発達障害と言われる型破りの人間が社会を牽引してきた。織田信長や坂本龍馬。
太平洋戦争が終わって、74年、戦争のない安定した世の中が続き、冒険の日々を過ごすべく生まれた人は、住みにくく、障害者だと気の毒がられている。もっと彼らに敬意をもつべきと、思ったことでした。
日本でも指折りの精神科医と言われている、神田橋條治氏は、「発達でこぼこ」と呼んでいる。このほうが的を得ている。また、「落ち着きのない、子供はたくさんいるが、落ち着きのない爺さん・婆さんはいない。まわりが邪魔しなければ、脳は発達する。」とも言っており、別に動乱がなくても、冒険の日々を過ごすべく生まれてきた人たちも、立派な社会人になるとも。
冒頭の記事で、下の内容(新聞記事をそのまま使うのは問題だが、このブログを読んでくれるのは、北九州の釣りバカの皆さんが大半でご勘弁を)
日本経済新聞朝刊 2019/11/25 春秋
「日本にも旧石器時代があったことを証明した群馬県・岩宿遺跡の発掘から今年は70年の節目だ。地元の公民館などでは狩猟採集で生活していたこの時代に関する講演会が相次いで開かれ、今月そのひとつに参加した。そのなかで興味深い海外の研究成果の紹介があった。
旧石器人は、未知の土地での獲物の探索と、勝手知ったエリア内での獲物の居場所を予測し仕留める行動の2つを、並行して進めていたという。同じ土地にとどまったままでは食料資源が枯渇するので、新天地の開拓は欠かせない。ただし、当座の生活を考えると、高い確率で獲物を手に入れる工夫も怠れないというわけだ。
いま企業にもとめられることと、かなり似ている。激しさを増す競争に勝つにはイノベーションの種を求め、土地勘のない分野にも出ていって技術や人材を取り込む必要がある。同時に、目先の利益を確保するにはこれまでの経験を踏まえた製品改良や効率化が外せない。旧石器時代と同様、両刀遣いが生存の条件といえる。
狩猟、農耕、工業、情報社会と発展してきたが、生き残るための行動には一定のパターンがあるのかもしれない。旧石器時代と現代では探索するものが違うが、進むべき方向を示すリーダーの役割が重要なことも共通している。人工知能(AI)が広がる未来社会「ソサエティー5.0」でもこの点は、変わらない気がする。」
私の孫の一人は、最近耳にするようになった発達障害と言われる変わった子供。最初に発達障害と聞いて、驚いたり、心配したが、時々一緒に遊んでいると、この子は天才じゃないのかと、驚くことも。
妻と、車で農園に行くついでに、この孫(2歳のころ)を後部座席に座らせて、信号待ちで、妻と話に夢中になっていると、たどたどしい日本語で、「青よ」と。振り向くと孫が、信号が青になったから、発車しなさいと注意してくれたもの。
夕方、孫の住んでいた横浜の広い自然公園を散歩していて、よちよち歩きの孫が、空を見上げて指さす方を見ると、空に小さくジェット機が見える。
夏休み、孫たちでにぎやかな居間で、バアチャン(妻)がゴキブリを前の日退治したことが、孫たちの話題になり、一人が面白おかしく新聞でゴキブリをバアチャンが叩く真似。するとこの発達障害と言われてる孫が、そうじゃないと、バシン・バシンと全身を使った迫真の演技で、妻のゴキブリ退治をこと細かく覚えていると驚嘆。
常に遠くに目を向けているし、情報が正確豊富。
私が学生の頃、なんの準備も無しに、春の連休時の会津磐梯山に登り、山頂付近の深い雪と霧で迷子になりかかり、あわや遭難となった時、同行の一人が、難なく道を開いて、無事下山したことがある。
霧の向こうにある太陽が彼には、見えて、太陽との関係で方向を確かめれたものと思う。(通常の光がまぶしく感じる方もいるらしい)
何年か前、四国今治に墓参りで戻った時、地図を一目見るだけで、あとは地図を見なくてもそこにドライブできるという、高校時代の同級生と飲んだことがある。詳しく聞くと、子供の時から、太陽との関係で方向が自然に分かっていたとのこと。
5年ほど前、まだ若い人の就労支援の事務所に顔を出していたころ、若者の支援組織の合同会議があり、大人数の前で、「発達障害は障害ではない、個性。名前が悪い。疾風怒濤型とか、変えた方が良い」といったが、皆さん、何をいっているのかとブーイング。
3歳の男の子は、全員発達障害、成人も5%が発達障害とのこと。
能力が欠けている障害だと、長い歴史で、自然淘汰されて、激減するはずだが、5%もいるということは、社会にとって必要なグループである証拠でもある。
それで、冒頭の「春秋」だが、新しい猟場を求めて冒険の日々を過ごす役割を果たせるグループ(発達障害という妙な名前)と、安定した猟場で、確実に獲物を持ち帰るグループ(常識人)に旧石器時代に役割分担が出来た、種族が生き残り、出来なかった種族は、環境変化とともに絶滅したと考えてよいのでは。
歴史時代になっても、戦国時代や、明治維新の動乱期は、発達障害と言われる型破りの人間が社会を牽引してきた。織田信長や坂本龍馬。
太平洋戦争が終わって、74年、戦争のない安定した世の中が続き、冒険の日々を過ごすべく生まれた人は、住みにくく、障害者だと気の毒がられている。もっと彼らに敬意をもつべきと、思ったことでした。
日本でも指折りの精神科医と言われている、神田橋條治氏は、「発達でこぼこ」と呼んでいる。このほうが的を得ている。また、「落ち着きのない、子供はたくさんいるが、落ち着きのない爺さん・婆さんはいない。まわりが邪魔しなければ、脳は発達する。」とも言っており、別に動乱がなくても、冒険の日々を過ごすべく生まれてきた人たちも、立派な社会人になるとも。