この本は、下の朝日新聞書評を読んで、面白そうだと思っていつものように図書館で予約、2日間ほどで読了。特にアクリル板だとかスーパーココンピュータのシミュレーションとか、メディアやコメンテータがTVで色々しゃべるたびに違うよ、なんかおかしいと思っていたので、ぜひ読んでみたいという気持ちになった。上の写真を見ていただければ、わかるように「そうだ、そうだ」という部分に貼り付けたポストイットの量で同感具合がわかるように、日頃、私だけがエンジニアでかつひねくれ者なので世間の常識と違うんだと思っていたのにウイルスセンター長 西村 秀一氏とほとんど全部同意見であることを知ってホッとした。
『新型コロナ「正しく恐れる」Ⅱ 問題の本質は何か』書評 責任回避し目先追う社会の病理|好書好日
自粛警察やマスク警察を励行する人もいれば、ぎゅう詰めの居酒屋でどんちゃん騒ぎする人もいる。そんな両極端な人に特に薦めたい。文化記者の私には、西村秀一さんのコロナ対策の正否を判定する能力はないが、本書を読めば、社会全体が奇妙な方向へ走り出していることが分かる。
西村さんは、行政やメディア、専門家が喧伝(けんでん)する対策の多くについて、意味がないと主張する。マスク会食は「百年後の人たちに絶対笑われますよ」。アクリル板やフェースシールドは「アリバイ的」「免罪符のよう」と一刀両断にする。
スーパーコンピューターの富岳が飛沫(ひまつ)の拡散範囲を計算していたが、「隣の席からの飛沫がいちばん近くて多いという、わざわざお金をかけてコンピューターを使わなくても常識でわかることを見せて」いる。思わずふき出してしまった。
なぜそんなことになるのか。西村さんは、行政もメディアも専門家も、間違えた時の責任を取りたくないからだと見立てる。危機をあおることにばかり熱心。「ここまでは大丈夫」と自信を持って言える人間が日本にはいない。そして国産ワクチンが作れないのは大学が目先の成果を重視し、研究者の裾野がやせ細ったせいだ、と踏み込む。つまり、社会の病理がコロナで顕在化したというわけだ。
西村さんは「ここまでは大丈夫」と言ってくれる。しかし「コロナ恐るるに足らず」とは言わない。それどころか「インフルエンザより格段に怖い」と釘を刺す。変異株については「分からない」と正直に言う。
題名がいい。「正しく恐れよ」でなく「正しく恐れる」。行政やメディアをうのみにせず、しかし西村さんにお墨付きをもらうのも違う、との含意を私は読み取った。状況に応じて自ら判断することが肝要だ。とはいえ、今後も迷うことだらけだろう。ただ、本書を読んで、これだけは確信出来るようになった。極端なところに正解はない、と。
目次は以下の通り。
目次
第1章 見えてきたウイルスの実態(「過度」な対策、「不適切」な対策;真に「恐れる」べき点は何か;「変異株」狂騒曲)
第2章 「コロナ対策」一年の総括(「コロナ対策」個別検証;専門家とメディアの責任)
第3章 なぜ正しく恐れられないのか(「リスク評価」を踏まえた対策を;リスクコミュニケーションの必要性)
第4章 希望は何か―ワクチンをどう活用するか(病床ひっ迫は解消できるか?;ワクチンをどう活用するか?;「人間らしい生活」に向けて)
同感と思った点はいっぱいあるけど、今回はいっぱいあるので、詳しい説明は抜きでキーワードだけを列記する。
「ずっと言い続けていますが、そもそも遺体から感染などしません。」、「いらない対策は脱ぎ捨てていくべきです。」
「秋のアリバイ的アルコール消毒に関して言えば、ウイルスセンターでも、実験直後に実験台を消毒するルールはありますし、あるいは消毒が必要となった緊急時にはやることにしていますが、そうでない限り定期的な環境のアルコール拭き消毒なんてまったくさせてませんよ。」
インフルエンザとコロナの違いという節で、ーインフルエンザでは血栓の症状はないんですね。という問いに「インフルエンザでもたしかに高病原菌性鳥インフルエンザなどの症例では報告があったとは思いますが、非常に稀です。」
おかしな感染対策という節で、「それを言わないので、日本のように権威に弱く。皆横並びでないと気がすまない国では、未だに手洗いや環境消毒が跋扈しています。」
変異型でも対策は同じという節で、「変異型について行政、マスコミは騒ぎすぎです。」
「テレビで馬鹿げたことを言う”専門家”がいました。」、「変異型の感染者は全体で何人いて、そのなかで何に亡くなっているのか。そうした背景の実数をしっかり把握した上で比較しなければならないのです。」
マスク会食は現実的かという節で、一人の人間が単なる呼吸とともに出す、あるいは静かな会話で出す飛沫の量が極めて少ないことが知られています。」
安全率を最大に取るのはもうやめようという節で、「どうも金太郎アメのような誰でも言えることでしかないものを各首長がくり返しているように見えます。」
「マイクのアルコール消毒とかアクリル板のようなほとんど無意味な対策ではない、換気などの実効性のある対処法を指導しながら、環境を相当監視して営業を許可しないといけません。」
「世の評論家は、後出しジャンケンが多く、国民もそれにつられがちです。」
「考え方を整理する必要があります。
・新型コロナが居間の「指定感染症」という分類だとどんな不都合があるのか
・その不都合を、五類に変更することなく、他の手段、あるいは従来の方法の運用の仕方で改善できるかどうか
・五類に変更した場合の利点と不都合はなにか
・五塁にした場合の不都合を、回避できる手段はあるのか」
「「危険です」「可能性はあります」と安全率を大きくとっておけばまあ間違いないですからね」
シミュレーションに振り回されるなと言う節で、「たとえば、アクリル板の前で咳をしている動画がありますね。ここで注意すべきことを挙げます。まず第一に、この動画シミュレーションで見ている極めてたくさんの粒子は擬人化した像から排出される飛沫あるいはエアロゾルの動きを見ているだけということです。ウイルス粒子を見ているわけではありません。ウイルスは・・略・・多くてせいぜい10個程度です。」
感染者数を毎日報道するべきか?という節で、「私は意味がないと思います。・・略・・だから、われわれは一週間単位で物事を見ていいかなくてはいけないんです。」
PCR検査を「正しく使う」という節で、「「陽性者のうち他の人に感染させるほどのウイルスを持った人がどれだけいたのか。そこの数字を出すべきなのに、そういうデータは全く出してこない。」
「そこがリスクコミュニケーションなんです。たとえばグラフを見せるなら、治っていった人たちのグラフも並べて見せてほしい。患者数にずっと遅れて現れてくる死者数を、まるでその日に罹ってすぐに亡くなったように錯覚させるような見せ方はしないでほしいです。」
強毒化についてという節で、詳しく説明しますと、変異というのは最終的にどちらの方向に収まっていくかというと、毒性が軽い方に行くんですよ。」
「「最大最悪に備えた政策です。」という言い方が免罪符になるかということです。何でも悪い方に傾斜して対応した結果生ずる被害をどう考えるのか。」
「これはもう「コロナ病棟」のようなものを造るのが一番の解決法だと思いますよ。」
「ある程度の規模の病院なら、一庄ぐらい開けられるはずなんですが、そこで邪魔をするのが「恐れすぎ」です。・・略。。一例たりとも受けない・・・等。」
「それと同じように日本人の体質、特性を考えるなら日本人の抗体価をちゃんと測らないといけません。そのスタディーが本当の行われているのか、メディアは調べてみるべきです。」
「質問のポイントはたくさんあると思いますよ。現在の政策の批判もいいですが、批判だけに終止するのではなくて、次の一手をちゃんとやっているのかどうか、突っ込む質問をどんどんしていかないと、そういう質問をする司令部といいますか・・・・」
最後のあとがきにある「私たちは、パンデミックと闘うのではない。この社会と闘っているのだ。」という言葉も重い。
簡潔にキーワードだけにしようと思ったのだけど、結局長くなってしまいました。まあ、いまの日本のコロナ対策やメディア報道は、決してまともとは思えない、事実とは違った長いものにはまかれろ的な報道や意見がはびこっているということは認識した上で各自が冷静に判断する必要があるということをわかってほしいです。メディアも反省して、その曲も同じ内容を垂れ流すのではなく、独自の取材で各局が異なった興味深い取材内容を報道してほしいです。