梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

梅之京都日記2の19『湯冷めに気をつけて』

2007年12月15日 | 芝居
ホテル暮らしをするにしても、ウィークリーマンションで生活するにしても、お風呂に関しましてはなかなか満足できませんので…。

楽屋口から5分もしないところにある銭湯にちょくちょく足を運んでいます。

大きな湯船で全身を伸ばして温まれるのがいいですね~。ジャグジーやサウナもありますし、1日の仕事を終えたあとの、良きリラックスタイムです。
入浴料390円。これって東京よりも安いのでは?

梅之京都日記2の18『寒くなってまいりました』

2007年12月14日 | 芝居
南座顔見世興行も、昨日が中日でございまして、いよいよ折り返しとなりました。常にもまして自分の時間をもてる当月ですが、さあ残り半分の京都生活をどう過ごしましょうか…。
1昨年訪れましたときは数回雪が降りましたが、今年はまだ一度も。<異常気象>といってはオーバーですが、例年にない暖かな京都と地元の方もおっしゃっておりますが、ようやくここ数日<顔見世らしい>寒さがやってまいりました。
といって喜んでいられるはずもなく、風邪をひきやすく大寒がりの私にとりましては、朝晩過ごしにくくなってきました。
いつもはロックで飲む焼酎も、この頃はお湯割り…。
このまま体調を崩さず千穐楽を迎えられればよいのですが。

皆様もどうぞお体をお大事に。

梅之京都日記2の17『実年齢を越えられるか!?』

2007年12月13日 | 芝居
私が『将軍江戸を去る』で勤めさせて頂いております〈美濃部金之助の母〉。
これまで一門の大先輩、中村歌江さんや中村歌女之丞さんもなさっていらっしゃいまして、今回私が勉強させて頂きますのは何とも分不相応のようで申し訳なく思っておりますが、未熟ながらもなんとか毎日勤めさせて頂いております。

白髪も混じった〈ゴマ〉の鬘をつけておりますので、化粧も老け役のこしらえにしております。老けの化粧ではシワを描くことになりますが、いくら実年齢より老けて見られる私でも(小学生の頃、大学生に間違えられたぐらいです。ホントに)、なかなか引いたシワがしっくりと顔にのらず、毎回難儀をしております。
実年齢がもっと上ならば、それほどシワを描かなくともその役らしくなるのでしょうが、ただ今これでも20代。かぶる鬘や衣裳との釣り合いを考えましても、ある程度顔を作りかえませんとチグハグになってしまいます。
さりながら、今回この役を勉強させて頂くにあたりまして、先輩からは「女形のシワは一本描くごとに品がなくなるから気をつけなさい」というお言葉も頂いております。もちろん、演目やお役によって必ずしもそうと言い切れるものではございませんが、この度はリアルにやろうと思えばいくらでもできる新歌舞伎。そうした舞台で、老けよう老けようとして<やりすぎる>ことは、すなわち歌舞伎から離れてしまうことを意味します。どんな場合でも、大歌舞伎であることを忘れないためにも、このお役の化粧、心して取り組まなければならないと思っております。

そういう意味でも、この年で老けを勉強させて頂ける有難さ! 本当に感謝しております。

梅之京都日記2の16『三たび京都観光…』

2007年12月12日 | 芝居
あいにくの小雨でしたが、南禅寺に参拝してきました。
小学校のとき以来ですから、10数年ぶりということになりますか。『楼門五三桐』でお馴染みの三門に登り、大喜びしていたあのころ…。
再び同じ場所にたち、雨にけぶる京都市内を見渡しますと、やっぱり気分は五右衛門ですよ。他に誰もいなければ、見得のひとつもしようというくらい。紅葉はすっかり散っておりましたが、もう少し早く訪れていたら、さぞや美しい眺めだったことでしょうね。

法堂や方丈のことはすっかり記憶にありませんでした。今回改めて参りまして、法堂では気迫に満ちた竜の天井絵(明治期 今尾景年画伯の筆)、方丈では狩野探幽、元信、永徳による襖絵をじっくり拝見。とりわけ襖絵は、薄曇りの日に、照明もほとんど入れていない薄暗がりの室内を遠くから拝見するものですから、じっと見ているうちに絵がぽわーっと浮かび上がってくるような不思議な錯覚。しんとした空気、ゆったりとした時の流れの中、約400年も前の作品の息づかいが聞こえてくる…。幸せなひとときでした。地の金箔のさびれかたにシビレます。



琵琶湖の水を運ぶ<水路閣>ももちろん見てきました。赤煉瓦の西洋建築が、今でこそそのさびれ具合でお寺と調和していますけど、できた当時はどう見えたのかなァ。お寺の人はなんとも思わなかったのかしら?
坂をのぼって、上からも見てみましたが、お魚さんも一緒に流れてるのでしょうか、「ここで釣りをしないで下さい」の大きな看板が。鮒とか?

懐かしさいっぱいの旅でした。

梅之京都日記2の15『生と機械の組合わせで』

2007年12月11日 | 芝居
『将軍江戸を去る』でホトトギスの鳴き声が笛による生音であることをお伝えしましたが、このお芝居では音響さんによるS.E.
も随所に使われております。

第1場の開幕時には、「…山内の老樹に塒(ねぐら)を求める鳥の声、折々聞ゆる…」と台本の指定にございますので、“烏”の鳴き声。それにかぶせて彰義隊士たちの喧騒も。

第2場への暗転中は、これも台本に「遠く折々山内見廻りの金棒の音聞ゆ」とありまして、ジャラン、ジャランという“金棒”の音がゆっくりとした間隔、なんとなく寂しげに響き渡ります。それが、黒御簾からの生音、ギリギリギリ…チーン、チーン…の<時計>にかわりますと舞台は溶明。四つ時分(午後10時)の大慈院の一室が浮かび上がります。

第3場への暗転中は、やはり台本の「大川を上る櫓声、ゆるやかに聞ゆ」とありますので、ギーコギーコという“櫓をこぐ音”に、黒御簾の<水音>が生でかぶさります。暗転幕があがるころには“鶏”の鳴き声も…(これも台本にはわざわざ“二番鶏”と指定がありますが、史実に基づいた出発時間から割り出したのでしょうか?)

考えてみれば、烏、杜鵑、鶏。1時間の芝居の中で、いろんな鳥が鳴いておりますね

梅之京都日記2の14『傘、傘、傘…』

2007年12月10日 | 芝居
小道具部屋の前を通りかかりましたら、お芝居に使う傘たちがメンテナンスを終えたところでした。
毎日使ううちに、ちょっとずつ痛んでくるものですので、小道具方さんが直して下さいます。
骨ばかりで桜の造花が付いているのが『京鹿子娘道成寺』で所化が使う<花傘>。
三つの紋が散らしてあるのが『俄獅子』でカラミの若い者が持つ<番傘>。成駒屋さん(翫雀さん、扇雀さん)ご兄弟の定紋である<寒雀の中に翫><寒雀の中に扇>、そして替紋の<蝶花菱>が描かれており、ご兄弟共演による今回の上演のために誂えたものでございます。
そして左側にある柄の長いものが、やはり『俄獅子』での立廻りで使われる<住吉踊りの傘>です。傘の部分が2段重ねになっておりまして(写真では下のだけ開いています)、先端には御幣、傘の縁には麻の葉鹿の子の布が飾りでついています。
住吉大社の行事から発展した江戸の住吉踊りは、多くは願人坊主が銭を得るための大道芸として広まったようでございますが、吉原でも行われていたことは、当時の浮世絵で見ることができます。吉原が舞台である『俄獅子』の立廻りに登場するのにも、ちゃんと理屈があるのですね。

梅之京都日記2の13『仮の宿とはいえ…』

2007年12月09日 | 芝居
ウィークーリーマンション生活も、今回で4回目(京都3回、博多1回)となったのですが、ようやく自分らしい毎日を送れるようになったと思います。
不動産のほうでご用意下さっている備品の他に何を持っていけばいいか。小さい流し台、限られた調理器具でどんな料理ができるか。劇場との距離や契約料はどのくらいが適当なのか…。
色々なことが感覚的に判ってまいりまして、今月の京都生活は極上々吉と言えると自負しておりマス。

寒がりな身には小型電気ストーブ、電気毛布。そして風邪予防のためにも加湿器は欠かせません。
食器も、おかずを数品作るとなれば備え付けのお皿では足りませんから、あとでレンジにかけることも考えて耐熱のタッパーを5、6個。現地で買うのは馬鹿らしいので調味料各種も自宅から小分けにして…。
貰い物でいつの間にか増えたお茶の葉も、このさい持参して楽屋でも頂きます。
夜はFM放送を聴きながら寝るのが習慣ですので、小型ラジオも必ず。もちろんパソコン、デジタルカメラもね。

なるべく自分の家と同じにしたいのですけれど、モノが増え過ぎても困ります。毎度毎度の荷造りでは、ああもしようこうもしようと取捨選択に頭を悩ませますが、現地についてみて、ああ、コレ持ってくりゃァよかったと思うことはしばしば。
それでも今回は結構過不足なく準備できました。しいていえば<読むもの>が足りなかった。もう一度読み返すべき本はいくらもあったのに…。

そんなわけで、今日はコンビニで<ダカーポ>なんて買ってみたりした梅之でした。

梅之京都日記2の12『再び京都観光…』

2007年12月08日 | 芝居
本日は、右京区の千本釈迦堂での<大根焚き>に行ってまいりました。
お釈迦様が悟りを開いたのが本日12月8日なのだそうですが、この日に行われる法要<成道会>にあわせ、中風除け、諸病平癒の願いを込めた大根の炊出しを行う行事とのこと。昼過ぎに市バスに乗って【上七軒】下車。すでに大勢の参拝客が、山門からあふれての行列をなし、縁起ものの大根を味わおうと集まっておりました。
先に食券(みたいなもの)を買ってから並ぶのですが、待つこと実に30余分! 休日ということもあり、また昨日も開催されておりましたのがニュースで報道されたせいもあり、いつにない混雑だと、地元の方々がおっしゃっておりました。
ようやく頂けた大根煮は大きな輪切りが3個に油揚げ1枚。結構なボリュームです。しっかり味がしみており、アツアツでとっても美味しかったです。

そのまま西陣近辺をブラブラ。<首途八幡宮>は、16歳の源義経が、金売り吉(橘)次とともに、奥州を目指すための安全祈願をしたお社。なので<首途(かどで)>なのですね。


それから<京都考古資料館>。入場無料で縄文~江戸末期までの京都の歴史が、さまざまな発掘資料からうかがうことができます。
コレは弥生時代の土偶です。館内は写真がOKなのですよ。想像もつかないくらいの、遠く昔の作品が、今ここにある不思議…。


そして是非とも参拝したかった<晴明神社>。いわずとしれた大陰陽師を祀るお社です。我が心の師水木しげる御大も、『神秘家列伝』で取り上げた安倍晴明(もちろん御大もこの神社には参拝なさっております)。映画、漫画の影響もあり、夕暮れ時というのに若い女性の参拝客で賑やかなこと。
いたるところに<晴明桔梗>とよばれる五芒星紋がございました。



最後はやはり安倍晴明ゆかりの<一条戻橋>。工事中なのがちょいと興ざめ。この下に晴明は式神を待機させていたのね…。
もちろん『新古演劇十種の内 戻橋』の舞台でもございます。


なかなか充実した3時間半の旅でした。

梅之京都日記2の11『「対面」の化粧声』

2007年12月07日 | 芝居
歌舞伎で<化粧声>と申しますと、主役の演技に合わせて、舞台に居並ぶ人々が「アーリャ」「コーリャ」と声を張り上げ、最後に「デーッケェ」としめる演出のことでございます。
主役の存在が「ああ、大きい!」ということを誉めるかけ声とも申せましょうが、舞台上でこういう賛辞をおくるという手法は、他の演劇ではまず見られないことですね。

現在、『菅原伝授手習鑑 車引』や『暫』、そして今月夜の部上演の『寿曽我対面』でみること(聞くこと?)ができますが、どれも<荒事>演技が見られるものです。主人公の超人的な荒々しい演技を盛り上げるわけですが、大昔は様々な狂言、場面で見られたとうかがっております。
不思議なことですが、『車引』と『暫』では、「アーリャ」「コーリャ」と掛け合うのですが、『対面』に限っては「アーリャ」「アーリャ」なんです。昔からの習わしなんだそうですが、何故なのかは諸先輩方に伺ってもはっきりとはわかりませんでした。今後調べてみるつもりです。
『対面』におきましては、十郎五郎の花道の出で七声、花道七三から本舞台への移動で五声、そして幕切れに三声と、<七五三>の吉例になっております。これは『車引』も同様で、芝居の区切り区切りに、七五三で申します。

私、立役時分に上記三演目全ての化粧声を勉強させて頂きましたが、なかなかしんどいものでございました。大きく、そして長く張り上げますので、言い終わったあと目の前が真っ白に…ということもしばしば。肺活量が足りないのかな。ずっと前に書きましたが、風邪で高熱のまま出た『車引』は本当に辛かった!
それから、言う数を間違えると吉例にならなくなりますから、心の中ではしっかり(1回、2回、3回…)と数えたり。左右2組に分かれて交互に言い合うのでけっこうややこしいのですよ。


梅之京都日記2の10『京都観光に…』

2007年12月06日 | 芝居
合間の時間で三十三間堂に行ってきました。
『三十三間堂棟木由来』でも描かれておりますように、紀州熊野から棟木に使う柳を曵いてきたという伝説もあるお寺でございますが、今回初めてお邪魔いたしましてその堂宇の立派さにまずびっくり。
そして内陣に足を踏み入れますと約1000体の観音様!(一部は東京国立博物館へ)整然と鎮座まします姿には、静かな迫力と申しましょうか、ある意味<異空間>の不思議で尊い空気。湛慶作の本尊のお顔の、なんと穏やかなことでしょう。
<通し矢>でも知られるお寺ですが、表からお堂を拝見しましても、この長い長い外縁の端から端までを射抜くという光景が、なかなか想像できません。往時はどんな強弓たちが挑んできたのでしょうか。



続いてすぐそばの養源院に参りました。
淀君が父の浅井長政の菩提を弔うため建てたお寺で、今の建物は、徳川秀忠の時代に、伏見城の遺構を移築して作り直したものだそうです。徳川家代々の菩提寺でもあり、15代将軍慶喜の位牌も祀られておりまして、全然そんなことは知らずに伺ったのですが、おりしも『将軍江戸を去る』上演中です。偶然に驚きました。
左甚五郎作の<鶯張りの床>、俵屋宗達の筆による、杉戸に描かれた白象や獅子、力強く大らかに枝を伸ばした松の襖絵、狩野山楽の牡丹の襖絵など、見どころはいっぱい。それらをカセットテープに録音された解説が案内してくれるんですが、受け付けのおばさまが、小型デッキを手動で操作してくださるのがなんともいい味でして…。
驚きましたのは<血天井>で、伏見城落城の際、城内で自刃した鳥居元忠をはじめとする多くの武将たちの血がしみ込んだ床板をお堂の天井にしているのだそうで、よくみると黒ずんだ手形やら体の形などが見えるのです。ここだけは先ほどのおばさま直々の生解説でしたが、なんとも奇怪、不思議なものですね~。

2、3時間の空き時間でも、じっくり拝見することができました。こんなかんじであちこちめぐってみたいですね。

梅之京都日記2の9『「将軍江戸を去る」拾遺』

2007年12月05日 | 芝居
今回の『将軍江戸を去る』所演にあたりまして、これまでの上演時と変わった点など、私自身の心覚えの意味も込めて記しておこうと思います。
あくまで今回の上演においての変更点ということをお断りしておきます。

まず第1場「上野の彰義隊」。開幕早々の、隊士土肥が官軍兵を討ったと意気揚々と帰ってくるくだりを今回はカットしております。ここでは当時の官軍VS彰義隊の状況、血気にはやる隊士の様子が描かれておりますが、それは後にも出てくること。新門辰五郎の子分たちが応援物資を差し入れにくる様子を見せたあと、すぐに松嶋屋(我當)さん演じる山岡鉄太郎の登場となり、一気に物語の本編へ入ってゆくことになりました。

また、この場の幕切れ、鉄太郎が将軍に面会しに門内に入ったあと、隊士同士の「君、辱めを受くるときは」、「臣、死す」と嘆きあい、泣くくだりも今回はございません。伺いますと、この作品の初演からしばらくの間、つまり巌谷槇一氏が演出にあたられていた頃は、原作にもある台詞とはいえ、あえてカットされていたそうですから、それを今回は踏襲したと申せましょう。

第2場「上野大慈院」。幕開きに鳴くホトトギスの鳴き方が変わりました。昔から、笛を使った生音でやっておりますが、これまでは何の鳥が鳴いているか特定できないような鳴き方でした。しかし、皆様ご承知の通り、ホトトギスと言えば「テッペンカケタカ」という鳴き声がお馴染みでしょう。古典演目『髪結新三』でも聴くことができますが、慶喜の台詞にも「ああ、時鳥(ほととぎす)が鳴く…」とありますように、やはりお客様にも、ああ、ホトトギスだなと思って頂きたくもございますので、師匠ともご相談いたしまして、たびたび『髪結新三』でホトトギス笛を担当なさった先輩にご教授頂き、不肖私が勤めさせて頂いております。

それから中盤で、障子ごしに鉄太郎と侍臣の押し問答をシルエットで見せるところがございますが、これまでこのくだりの台詞はあらかじめ録音していたものを流すという形でした。これは、障子ごしの生声では、音がこもってしまい、大切な台詞が客席に通りにくいのでは、という配慮だったのですが、やはりその場で実際に喋ることによる臨場感、お勤めになる方の気持ちの問題(録音ですと、障子に映っている役者さんの演技は、声を出さないパントマイムだということになってしまいますよね)もございまして、影絵の演技ではございますが、鉄太郎と侍臣の台詞は生音となっております。

第3場「千住大橋」では、稽古中の記事にも書きました通り、あまり<感情過多>にならないように配慮された群衆演技になったことが挙げられましょう。

真山青果氏の渾身の作、そしてその作意を最大限伝えようとご苦心なさった真山美保氏の演出は宝物です。それが、その時々に応じて所々変わるところはあっても、この芝居の魅力は強く迫ってまいります。
言葉の力のすごさを、毎日の舞台でひしと感じております。

梅之京都日記2の8『まだおりましたね、梶原さん』

2007年12月04日 | 芝居
今月南座のもう1人の<梶原平三>をご紹介し忘れておりました。
『義経千本桜 鮓屋』で、維盛の首実検に来る梶原平三です。

夜の部の梶原さんは演目とともにキャラクターが変わりましたが、「鮓屋」の梶原さん、演者によってキャラクターが変わるという面白いお役です。つまり、『対面』にも通じるようなクセ者として演じるか、『石切』同様の知恵のある武将として演じるかということですが、その選択によって化粧、扮装も変わります。

<砥の粉>が入った、やや赤みがかった顔色、チリチリパーマのような<癖付き>の鬘、あご髭をつければ、一目で敵役とわかるでしょう。一方、白塗りで、癖のない鬘をつけたなら、智者としての表現がかつことになります。
台詞が変わるわけではないので、お勤めになる方の<肚>にも関わってくることですが、どういう扮装をとるかで、お客様がうける印象は大きく違うと思います。

いずれにしましても、衣裳は黒繻子の半素襖、袴、織物の着付。黒の引き立て烏帽子に<鍬型>の前飾りが付いたものをかぶりますが、芝居の後半、権太に褒美として与える陣羽織を、自ら羽織って登場する演出があり、その場合は鎧姿になります。

今月の梶原役の天王寺屋(富十郎)さんは、白塗りでお勤めになっていらっしゃいます。

梅之京都日記2の7『あ~助かった』

2007年12月03日 | 芝居
朝からにわかの腹痛でこれは大変と、名題下部屋で仲間たちに手当たり次第薬を求めておりましたら、関西籍の後輩がくれたのが…。



そう、今月昼の部上演の『義経千本桜 鮓屋』前の場である「木の実」で、権太の女房小せんが、平維盛の息子六代君のために買いに出かける《陀羅尼助》でございます。

現在も市販されていることは聞いておりましたが、現物を見るのは初めて。なんでも1000年以上も昔、あの役行者が奈良の大峰山での修行中に作り出したといわれているそうで、なるほど権太たちが住む下市村ではお馴染みの薬だったことでしょう。

効能は、二日酔いのむかつき、胃腸虚弱、消化不良、食欲不振、吐き気など。
一袋をいっぺんに飲むのですが、マァその苦いこと。おそらく配合されているセンブリのせいではないかしら。
おかげですっかり治りました。アラ有難の陀羅尼助様、です。
お芝居に関係あるんだかないんだかわからないお話でした。

梅之京都日記2の6『善悪両面、15分の幕間で』

2007年12月02日 | 芝居
今月の南座顔見世夜の部では、面白いことがおきております。
序幕『梶原平三誉石切』、そしてそれに続く2演目め『寿曽我対面』で、<梶原景時>のキャラクターが180度変わってしまうのです。

ご存知「石切梶原」のタイトルロールである梶原景時は、<生締め>の鬘、家の<矢筈(やはず)>紋を金糸で縫い出した裃も凛々しい典型的な<捌き役>。平家に身を置きながら心では源家を思い、窮地にたつ六郎太夫父娘を救う全くの善人です。
ところが「対面」となりますと、白髪は逆立ち髭まで生えた奇怪な老人姿、柿色の大紋に身を包みデンと座ったままで、息子の平次景高とともに、曽我兄弟を悪罵し放題。実にイヤ~な奴となってしまいます。

梶原平三景時。保延6(1140)年?~正治2(1200)年の武将。石橋山の戦いで、当時は敵であった源頼朝を助けたことから、後に重用され、平家討伐に多くの功績をあげますが、源義経とは色々と対立があったようで、讒言によって義経を追いやったという説(史実かどうかは謎)、その他有力大名を策を持って滅ぼした経歴が、いわゆる<判官贔屓>の感情からは憎まれることとなり、義経がヒーローとなる芝居ではきまって悪人、佞人として描かれるようになってしまったようで、これが「対面」にみられる人物造形なわけですね。

ところが、その唯一の例外が「石切梶原」で、ここでは先ほども申しましたように、知恵と慈悲をもって源家ゆかりの者を救う勇者となっております。とはいえ芝居の後段、自ら「のちに自分は悪者と呼ばれるかもしれないケド…」という旨の台詞をいうのが、なんだか予言めいておりますが。

景時一族の末路は哀れだったようで、2代将軍頼家のとき、権勢をほしいままにしてきたことが他の武将たちに憎まれ、排斥の連判状が幕府に提出。これを受けて領地相模国へ引き下がるものの、新たな将軍を擁立せんと京都へ向う途中、駿河国で戦死。
ひと幕の華々しい主人公には、実は悲しい最期が待っているのでした。

梅之京都日記2の5『南座解剖?』

2007年12月01日 | 芝居
南座の楽屋は少々造りが入り組んでおりまして、お訪ねになったお客様はもとより、南座初出演の役者さんなども、目指す部屋へどのように行ったらいいか、迷うこともしばしばです。かくいう私も6年前の初京都のおりは、名題下部屋から師匠の部屋へどう行っていいのかわからず、同じところをグルグル回ってしまい二十歳を過ぎて迷子になってしまいました。

こういう事態になりますのも、南座の楽屋が客席をはさんで2棟にわかれているからでしょう。上の図を御覧下さい。
基本的に3階西楽屋と4階楽屋が幹部俳優さんと名題俳優さんの部屋になり、一方の3階東楽屋は名題下さんと名題俳優さんが使いますが、座組によっては地下の楽屋も使われます。東西の棟を行き来するには、地下1階か4階を通り抜けなくてはならないのですが、たいていは4階経由で移動いたしますので、これを俗に《山越え》と呼んでおりマス。

舞台に行くにしても、西側楽屋はエレベーターのみ。もしうっかり忘れ物をしてしまうとコワいですね。東側の階段を駆け上るのもつらいといえばつらいですが。

小さい劇場ながら、よく歩かされる南座でございます。