梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

梅之京都日記2の25『40余年前の顔見世で…』

2007年12月22日 | 芝居
一門の大先輩、中村歌江さんから伺った、京都の顔見世の思い出話…。

先代の中村屋(17代目勘三郎)さんが『助六』をなすったときのことだと申しますから、昭和35年のこと。
当時の顔見世興行では、初日は<昼夜通し上演>。通常の1部の料金がちょっと高くなったくらいの入場料で、昼夜の演目をずっと見物できたそうなのですが…。
その頃の顔見世といえば、上演演目数の多さはビックリするくらいなもので、まして初日ともなれば装置転換の段取りもつかず、芝居はどんどん押せ押せに。
この年の初日もご多分に漏れず、夜の部4番目の『助六曲輪菊』の開幕はすでに深夜となってしまい、なんと中村屋さんお勤めの助六が、花道での<出端>を終え、本舞台でキマッたところで、「東西、まず本日はこれぎりィ…」の<切り口上>、とうとう時間切れとなり、終演になったのでした。

ちょっと驚きの展開ですが、考えてみれば、揚巻もすでに<悪態の初音>の見せ場は済ませてはおりますし、意休、白玉など、主要な役はすでに登場したあと。ここで打ち切ることになっても、なんとかご見物のご了承は頂けそうですね。
ところがところが、本当ならこの芝居のあと、『石橋』の所作事が大喜利としてあるはずでした。ご出演の高砂屋の福助さん(五代目。三代目梅玉氏のご子息)はじめ獅子の精の方々、隈取りもして、すっかり拵えがすんだところでこの事態。たいそうガッカリなすっていたそうです。

今では考えられないことですが、昔はこのように、時間やその他の都合により、芝居を<預かる>ことがしばしばあったそうですね。
資料を見ますと、この年の狂言だては昼の部に『業平吾妻鑑』『いもり酒』『道成寺』『番町皿屋敷』『一本刀土俵入』、夜は『妹背山 三笠山御殿』『隅田川』『将軍江戸を去る』『助六』『石橋(芽生牡丹競石橋)』の10演目。豪華な演目がならんでいますね。昼の部は10時開きで、夜の部終演時間は午後11時11分。いや~見物にも体力がいりそうです!
そしてこのとき、6世歌右衛門の大旦那は白拍子花子、腰元お菊、酌婦お蔦、斑女の前、揚巻…!!
想像もできません。

京阪電車の<顔見世列車>のことなど、私は話に聞くだけ。往時の顔見世のことなど、お聞かせ下さいます方がいらっしゃいましたら、お便りをお待ち申し上げております。