先日、岳友(先輩)のお墓を訪ねた。
ほとんど毎年と言っていいほど、山の仲間が山で命を無くしていく。しかし、自分の登山パーティーで亡くなったのは、この先輩だけだ。私は長年、毎週のように山やクライミングに出かけているが、「自分と一緒に行った仲間には、絶対事故に遭わせたくない」。そう思ってきた。しかし数年前のヨーロッパアルプスで、とうとう事故が起きてしまった。痛恨の1日だった。
私はこのことを忘れない。これからも登り続けて行く限り、私はこのことを忘れてはいけないのだと思う。もう自分の目の前で仲間が死んでいくのは見たくない。経験の無い方には分からないかもしれないが、ついさっきまで元気に楽しく一緒に山を登っていた仲間が、一瞬のうちに会話もできない、呼びかけにも答えない、そして動いてもくれない。もう永遠に、だ。こういう現実が自分の目の前にある。私は「この人の代わりに死にたい」とまで思った。だから「痛恨の1日」なのだ。出来ればその前の時間に戻りたい。戻ってやり直したい。でもそんな後悔は「先に立たず」だ。
しかし、それからの数年間、私はそういう思いを活かしてきただろうか。全く十分ではない。やはり途中でその強い思いが薄れてきたしまう時があるのだ。そういう時にいい加減なことをやってしまう。でも毎年、この日にはあの強い思いに立ち返るために、先輩の墓を訪ねるのだ。私のようにクリスチャンには、墓をお参りするという考え方は無い。でも、ここに来るたび思いを新たに出来る。自分や山仲間の命を大切にしていくためにも、毎年ここを訪ねようと思う。