「太陽にほえろ!」当直室 仮設日誌 PART2

6年半ご愛顧いただいた『太陽にほえろ!当直室』(since2002年5月)復活ブログ、引っ越しました。(2014年7月)

想い出す昔

2011-12-19 23:06:02 | 当直室業務連絡
家長が亡くなると言うのは、私の想像していたより大きく、今のところ寂しさより様々な手続きに追われているという部分が大きくて、故人を偲ぶにはもうちょっと時間が要りそうです。
下世話ではあるのですが・・・。

常連さんに弔電やメールを頂いていましたが、ご返事をするにも型通りのものしか思い浮かばない始末なので、ここでちょっと太陽を絡めた父の想い出なんぞを披露して、返事に代えさせていただきたいと思います。
興味無い方はスルーしていただいて・・・(^_^;)

父が亡くなって、父関係の書類を整理していたら・・・とっくに忘却の彼方にあった記憶が思い出されてきました。
何しろ50年ほど前からの通信簿、謄本、預金通帳、証券、婚姻届の控え・・・様々な書類が出てきましたが、30カローラ以後の契約書やらを見ていると、太陽本放送当時と記憶がリンクしてきて、懐かしいこと・・・。

そもそも、私が太陽中毒になったきっかけが両親だったわけで(母が殿下ファンだった)、私がテレビを持った1980年正月まで一緒に太陽を観ていました。
私の記憶では太陽中毒の発症は1976年頃だったと思います。ゴリさんのヨコワケ髪をねだったり、スプリンターLBのミニカーを捜すため父のクルマで市内を走って回った記憶があります。無論スプリンターLBのミニカーは無く、代りにカローラLBのトミカ・ダンディを買ってもらいましたが・・・(^_^;)
親戚の家に行くと、大人の話に入っていけず、30カローラの運転席や叔母の80系クラウンHTの運転席に乗り込み、一人太陽ごっこをした記憶があります。父はいつも暇そうにしている私に車のキーをそっと差し出して促します。エンジンをかけるのはご法度ですが、ハンドルを握ることは許してもらえました。

私がテレビを持った1980年頃、父は裏番組のプロレスが観たかったのか、すんなりマイテレビを持つことを許してくれました。
その頃からゆっくりと家族の個別化が進んだと思います。

その後私も就職し、太陽がソフト化した1992年頃から買ってきたビデオをすぐ観たくなり、夕食をとりながら太陽を家族で観ました。感想を聞いたことは無いですが、父もじっと観てましたが・・・やがて私が残業で食事の時間が一緒になることが少なくなるとそんな場面も激減していきました。

最近ではすれ違いばかりで元々お互いに会話が多い方ではないので、同居していながらお互いの事を知らないことが多かったかもしれません。

それが果たしてお互いに悪いことだったのか、良いことだったのか、今となっては解りませんが、それらを後悔することになるのかは今時点ではまだ解りません。

親と子の関係は、様々ですね・・・。
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