goo blog サービス終了のお知らせ 

寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 重耳と介子推

2008-12-25 11:52:18 | Weblog
 晉は姫姓、成王の弟、唐叔虞の封ぜられし所なり。成王幼きとき、叔虞と戯れ、桐葉を削って圭と為して曰く、此れを以て若(なんじ)を封ぜん、と。史佚(しいつ)、日を択ばんと請う。王曰く、吾、之と戯れしのみ、と。佚曰く、天子に戯言(ぎげん)無し、と。遂に唐に封ず。後世、文公に至って諸侯に覇たり。文公名は重耳(ちょうじ)、獻公(けんこう)の次子なり。獻公、驪姫(りき)を嬖(へい)して、太子申生を殺し、而して重耳を蒲に伐つ。重耳出奔し、十九年にして後、国に反(かえ)る。嘗て曹に餒(う)う。介子推、股(もも)を割(さ)いて以て之に食わしむ。帰るに及んで、從亡の者狐偃(こえん)・趙衰(ちょうし)・顚頡(てんけつ)・魏犨(ぎしゅう)を賞し、而も子推に及ばず。

成王が幼少の頃、弟の叔虞と遊んでいたとき桐の葉を圭の形に切って叔虞に諸侯とするとした。史の佚が日を択んで任命しましょうと申し出ると、冗談だからというと佚が天子に冗談はありませんと、唐に封じた。後に文公(重耳)が諸侯の旗頭になった。重耳は獻公の二子で、獻公は驪姫を寵愛して後継ぎの申生を殺し、重耳を蒲という所で殺そうとした。重耳はようやく逃れ、わずかな臣と共に各国を流浪の末、十九年後に故国に戻る。嘗て曹の国にいて飢えた時、介子推が股の肉を割いて重耳に食わせたことがあった。放浪を共にした狐偃等は恩賞に与ったが、介子推には何も無かった。

圭 天子が諸侯を封ずるとき授けた玉  史 記録を掌る官
なお宮城谷昌光に「重耳」「介子推」共に、著作がある。

ライトアップ

2008-12-24 14:23:19 | Weblog
 昨日出光美術館の陶磁器の展覧会に行って来ました。最終日だったのでかなり混雑していた中で、日本と中国それにヨーロッパ各国の陶磁器が比較展示されていて、西欧人の白い磁器に対する憧れが感じられました。
 閉館時間近くに皇居の石垣をライトアップするとの案内があったので、石垣を照らすのかと期待して9階ロビーから人々の背中越しに見ましたが、これがなんともnonsense、石垣から電飾をカーテン様に垂らしたもの。馬鹿らさを通り越して怒りさえ沸いてきました。天皇陛下のお膝元、誕生祝いでもないでしょうがあまりにも悪趣味に映りました。 早く静かな石垣に戻して欲しい。
 近頃やたらとチカチカ飾りすぎる。発光ダイオードとかで消費電力が格段に減ったというが、ゼロではない、ちゃんと地球温暖化に貢献?しているではないですか。

十八史略拾い読み 隣国に聞かしむべからず

2008-12-22 09:20:35 | Weblog
戦国の時、子思、衛に居(を)る。苟變(こうへん)を将とす可しと言う。衛侯曰く、變は嘗て吏たりしとき、民に賦して、人の二雞子を食(くら)えり。故に用いず、と。子思曰く、聖人の人を用うるは、猶お匠の木を用うるが如し。其の長ずる所を取って、其の短なる所を棄つ。故に杞梓(きし)連抱(れんぽう)にして、数尺(せき)の朽有るも、良工は棄てず。今君、戦国の世に處(お)り、而して二卵を以て干城の将を棄つ。此れ隣国に聞かしむ可からざるなり、と。

子思は衛に居るとき苟変を将に薦めた。衛侯の言うには、苟変は役人をしていた時、民に鶏卵を二個づつ徴収して食った、だから用いないと。子思は、聖人が人物を登用するのは、棟梁が材木を使うようなもので、その良い所を取って、悪いところを棄てます。
ですから杞(やなぎ)や梓の幾抱えもある材になると、たとえ朽ちた所があっても良い棟梁はうまく使います。いま卵二個で国の守りの大将を用いないとは、隣国にも知られてはならない事です、と。

連抱 幾人も手を連ねて抱きかかえること  干城 たてと城、国を守る武人

十八史略拾い読み 老子

2008-12-18 18:03:31 | Weblog
今日は3つ目の忘年会、詩吟教室の仲間とささやかな、ささやかな飲み会です。

老子は、楚の苦縣(こけん)の人なり。李姓、名は耳、字は伯陽。又曰く、字は耼(たん)と。周の守蔵吏と為る。孔子焉(これ)に問う。老子之に告げて曰く、良賈(こ)は深く蔵(おさ)めて虚しきが若くし、君子は盛徳あって、容貌愚なるが若し、と。孔子 ―中略― 今老子をみるに、其れ猶龍のごときか、と。
老子、周の衰えたるを見て、去って關に至る。關の令、尹喜曰く、子将に隠れんとす、我が為に書を著わせ、と。乃ち道徳五千余言を著わして去る。其の終る所を知る莫し。其の後、鄭人列禦寇(れつぎょこう)・蒙人荘周有り。亦老子の学を為(おさ)む。荘周、書を著わし、孔子を侮り、而して諸子を誚(そし)る。

老子、老耼は周の守蔵吏(図書室)の役人になった。孔子が礼について問うたところ良い商人は、品物を深くしまいこんで、無いように見えるものだ、また有徳の君子は徳を顕わさないで、まるで愚者のように見えるものだ、と。孔子は帰って弟子に、老子は例えれば龍のようで、とらえようが無く、偉大な人である、といった。
老子は周を去って、関(函谷関か)にさしかかった。関の役人の尹喜は、あなたは今世を遁れようとしていますが、私のために何か書いて下さいませんか、と請うた。そこで老子は道徳経を書き残して去った。その後の消息を知る者はいなかった。後になって鄭人列禦寇(列子)と蒙人荘周(荘子)が老子の学をおさめた。荘子は孔子を侮り、諸子をそしった。

十八史略拾い読み 孟子

2008-12-17 17:37:16 | Weblog
今日は短い文なので先ず白文から書きました。返り点は付けていません。

孟子其門人也。名軻、魯孟孫之後。生於鄒。幼被慈母三遷之教、長受業子思之門。道既通、游齊・梁。不用。退與萬章之徒、難疑答問、作七篇。

孟子は其の(子思の)門人なり。名は軻(か)、魯の孟孫ののちなり。鄒(すう)に生る。幼にして慈母三遷の教を被り、長じて業を子思の門に受く。道既に通じ、齊・梁に游ぶ。用いられず。退いて萬章の徒と、難疑答問して、七篇を作る。

三遷 孟母三遷 初め墓地の傍に住んだところ葬式のまねごとばかりしているので次に市場に移ったところ、商売のまねをした。最後に学校の傍に引っ越したところ礼儀作法をまねるようになった。  ほかに孟母断機のことわざがある、学業途中で家に帰った軻に織りかけの機(はた)の縦糸を断って見せて、中途で投げ出せば、この織りかけの布と同じで全く無駄になってしまうと諭した。
萬章 孟子の弟子  七篇「孟子」七篇