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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 左袒

2010-05-11 13:38:12 | Weblog
劉氏の為にせんとする者は左袒せよ
八年、太后崩。諸呂欲爲亂。時呂祿將北軍。呂産將南軍。太尉勃不能主兵。平・勃使酈寄説祿、解印以兵授勃。勃入軍門、令曰、爲呂氏者右袒、爲劉氏者左袒。軍中皆左袒。軍中皆左袒。召朱虚侯劉章、予卒千餘人、撃呂産殺之、分部悉捕諸呂、無少長皆斬之。
諸大臣、迎立代王恆。王西郷讓者三、南郷讓者再。遂即位。誅子弘等、赦天下。是爲太宗孝文皇帝。

八年、太后崩ず。諸呂、乱を為さんと欲す。時に呂禄は北軍に将たり。呂産は南軍に将たり。太尉勃、兵を主(つかさど)ること能わず。平・勃酈寄(れきき)をして禄に説かしめ、印を解き兵を以って勃に授けしむ。勃、軍門に入り、令して曰く、呂氏の為にせんとする者は右袒(うたん)し、劉氏の為にせんとする者は左袒(さたん)せよ、と。軍中皆左袒す。朱虚侯(しゅきょこう)劉章を召して、卒千余人を予(あた)え、呂産を撃って之を殺し、分部して悉く諸呂を捕え、少長と無く皆之を斬る。
諸大臣、代王恒を迎え立つ。王、西郷(せいきょう)して譲ること三たび、南郷して譲ること再び。遂に位に即く。子弘等を誅し、天下に赦(しゃ)す。是を太宗孝文皇帝と為す。

八年に呂太后が亡くなった。この時呂氏一族が報復を恐れて反乱を起こそうと企てた。このとき、呂禄は北軍を率い、呂産は南軍を率いていた。太尉の周勃は一兵も掌握していなかった。陳平と周勃は酈寄を使って呂禄から大将の印綬を欺き取り、北軍の兵力を周勃に渡させた。
周勃は軍営に入るや「呂氏に味方する者は右肩をぬげ、劉氏に味方しようと思う者は左肩をはだけよ」と命じた。全軍の兵士は左肩をぬいだ。そこで周勃は朱虚侯の劉章を召し出し、兵士千余人を与え、呂産を攻め殺し、さらに手分けして呂一族を捕え、大人子供の区別無く、すべて斬り殺した。
大臣たちは高祖の第三子である代王恒を迎えて立てようとしたが、恒は西に面して辞退すること三度、南面して二度辞退したが、辞退しきれず即位した。そして呂后の立てた弘等を殺し、天下に大赦をほどこした。これが太宗孝文皇帝である。

左袒 左袖を脱ぐこと、ここから味方することを左袒すると言った。
西郷、南郷 郷は嚮に同じ向うこと、主人と客が対坐するとき、主人は西に居て東に向かい、客は反対に向く、つまり自身は主とならない意思をあらわした。また天子は南面するのが礼で、しかたなく天子の座に着いたが、なお辞退の姿勢を表したもの。

三大悪女の一人といわれた呂后が遂に死んだ。紀元前180年、二千百九十年のことになります。他の二人は武則天、則天武后とも呼ばれ、千三百年前に死んでいます。もう一人は西太后、およそ百年前のことです。三人とも相当残酷な話を残していますが、不思議なことに、政治的には国内をよくまとめ、民衆には平穏な時期をつくり出していたようです

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