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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 殿中少監馬君墓誌

2014-04-19 12:10:39 | 唐宋八家文
殿中少監馬君墓誌
君諱繼祖。司徒贈太師北平莊武王之孫、少府監贈太子少傅諱暢之子。生四歳、以門功拜太子舍人。積三十四年、五轉而至殿中少監。年三十七以卒。有男八人女二人。
 始余初冠、應進士、貢在京師、窮不自存。以故人稚弟拜北平王於馬前。王問而憐之、因得見於安邑里第。王軫其寒飢、賜食與衣、召二子使爲之主。其季遇我特厚。少府監贈太子少傅者也。姆抱幼子立側。眉眼如畫、髪漆黒。肌肉玉雪可念。殿中君也。當是時、見王於北亭。猶高山深林鉅谷、龍虎變化不測、傑魁人也。退見少傅、翠竹碧梧、鸞鵠停峙、能守其業者也。幼子娟好靜秀、瑤環瑜珥、蘭其牙、稱其家兒也。
 後四十五年、吾成進士、去而東游、哭北平王於客舍。後十五六年、吾爲尚書都官郎、分司東都。而分府少傅卒哭之。又十餘年、至今哭少監焉。嗚呼、吾未耄老、自始至今、未四十年、而哭其祖・子・孫三世。于人世何如也。人欲久不死而觀居此世者、何也。

君諱(いみな)は継祖(けいそ)。司徒贈太師北平荘武王の孫、少府監贈太子少傅(しょうふ)諱は暢(ちょう)の子なり。生まれて四歳、門功を以って太子舎人に拝せらる。三十四年を積んで、五たび転じて殿中少監に至る。年三十七にして以って卒す。男八人、女二人有り。
 始め余初めて冠し、進士に応じ、貢(こう)せられて京師(けいし)に在りしとき、窮して自ら存せず。故人の稚弟を以って北平王を馬前に拝す。王問いてこれを憐れみ、因りて安邑里の第(てい)に見ゆるを得たり。王その寒飢(かんき)を軫(いた)んで、食と衣を賜い、二子を召して、これが主たらしむ。その季我を遇すること特に厚し。少府監贈太子少傅という者なり。姆(ぼ)、幼子を抱いて側に立てり。眉眼画けるが如く、髪は漆黒なり。肌肉は玉雪のごとくにして念(おも)うべし。殿中君なり。
 是(こ)の時に当たって、王に北亭に見(まみ)ゆ。猶高山森林鉅谷(きょこく)に、龍虎の変化して測られざるがごとく、傑魁(けっかい)の人なり。退いて少傅に見ゆるに、翠竹碧梧(すいちくへきご)、鸞鵠(らんこく)の停峙(ていじ)するがごとく、能くその業を守る者なり。幼子は娟好静秀(けんこうせいしゅう)、瑤環瑜珥(ようかんゆじ)、蘭の其の牙を(いだ)すがごとく、その家に称(かな)える児なり。
 後四五年、吾進士と成り、去って東に游び、北平王を客舎に哭す。後十五六年、吾尚書都官郎と為り、東都に分司す。而して分府たりし少府卒し、これを哭す。また十余年、今に至りて少監を哭す。
嗚呼、吾未だ耄老(ぼうろう)ならざるに、始めより今に至るまで、未だ四十年ならずして、その祖・子・孫の三世を哭せり。人の世に于(お)いて何如(いかん)ぞや。人久しく死せざることを欲するも此の世に居る者を観(み)るに、何ぞや。


殿中少監 殿中省の次官、従四品上。 司徒贈太師北平莊武王 馬燧のこと、司徒は三公の一。 少府監贈太子少傅 少府監は工業の監督官庁長官、従三品で死後太子少傅を贈られた。 太子舎人 太子の召使、馬燧の威光で与えられた官職。 貢 推薦。 稚弟 末弟。 第 邸。 主 接待役。 姆 うば。 玉雪 雪の美称。 可念 可愛い。 鉅谷 大きい谷。 傑魁 すぐれた人物。 鸞鵠 霊鳥。 停峙 とまり佇む。 娟好静秀 うつくしく上品。 瑤環瑜珥 玉の腕輪や耳輪。 牙をす 芽を出すこと。 称 かなう。 吾尚書都官郎 尚書省の都官員外郎、韓愈はこのとき河南省の令を兼ねていた。 耄老 おいぼれ。 

君の諱は継祖。司徒贈太師北平莊武王馬燧の孫で少府監贈太子少傅、馬暢の子である。四歳で太子舎人の官を賜った。三十四年を経て五度転任して殿中少監になった。三十七歳で死去。男子八人、女子二人が残された。
 私が二十歳になったばかりの時、進士を受験し、地方試験に合格して長安に出てきた時には貧乏で自活してゆけないほど困窮していた。お知り合いの末弟でございます。と拝謁した。北平王馬燧はこれを聞いて憐れみ、安邑の屋敷で面会することを許された。王は私の貧窮をあわれんで、食物と衣服を下された。また二人の子を呼んで私の接待役を申し付けた。そのうち弟の方が特に手厚くもてなしてくれた。それが少府監贈太子少傅、あなたの父上馬暢様だった。乳母が幼子を抱いて立っており、眉と眼がまるで描いた様にはっきりしており、髪は漆のように艶があり、肌は雪のように白く、かわいかった。それがあなただった。
 この時、北平王に北の亭でお目にかかったが、王は高山深林峡谷をかけ巡る龍や虎のようにはかり知れぬ偉大な人物であった。そこを退いて少傅にお目にかかると、瑞々しい竹やあおぎりに霊鳥が止まり居るようで家門を守るにふさわしい人格を宿し、幼子は美しく上品で、玉の腕輪や耳飾りのように輝き、まるで蘭が新芽を出したようで、名門の後継ぎにふさわしい子であった。
 その後四五年経ち私が進士となり、東の洛陽に旅をしているその宿で、北平王の訃報を聞き、悼んだ。それから十五年、私は尚書都官郎の職で東都洛陽に勤めていたが、やはり洛陽勤務の少傅が亡くなり、その死を悼んだ。さらに十数年、今少監を哭すことになった。
 ああ、私はまだそれほど耄碌していないのに、馬君に初めて会ってから四十年足らずのうちに祖父、子、孫の三代を弔ったのだ。これはどういうことなのか。人は誰でも長生きをしたいと願っているけれどこの世に居る者を見るに、どうであろうか。

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