寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 穆帝卒す

2012-04-19 10:56:19 | Weblog
秦苻堅弑其君生、自立爲秦天王。有薦王猛於堅者。一見如舊。自謂、如玄之於孔明。一歳中五遷官。擧異才、修廢職、課農桑、恤困窮。秦民大悦。
燕主慕容雋卒。子暐立。
晉桓温以謝安爲征西司馬。安少有重名。前後徴辟皆不就。士大夫相謂曰、安石不出、如蒼生何。年四十餘乃出。
帝在位十七年崩。改元者二、曰永和・升平。無嗣。成帝子瑯琊王立。是爲哀皇帝。

秦の苻堅(ふけん)其の君生(せい)を弑し、自ら立って秦天王と為る。王猛を堅に薦める者有り。一見、旧の如し。自ら謂う、「玄徳の孔明に於けるが如し」と。一歳の中五たび官を遷(うつ)す。異才を挙げ、廃職を修め、農桑を課し、困窮を恤(あわれ)む。秦の民大いに悦ぶ。
燕主慕容雋(ぼようしゅん)卒す。子暐(い)立つ。
晋の桓温、謝安を以って征西司馬と為す。安、少にして重名あり。前後徴辟(ちょうへき)皆就かず。士大夫、相謂って曰く、「安石出でずんば、蒼生を如何(いかん)せん」と。年四十余にして乃ち出づ。
帝、在位十七年にして崩ず。改元する者(こと)二、永和・升平と曰う。嗣(し)無し。成帝の子瑯琊王立つ。是を哀皇帝と為す。


廃職を修め 官署を統廃合すること。 前後 間をおかずに続けて。 徴辟 徴も辟も朝廷に召されること。 安石 謝安の字。 蒼生 たみくさ、人民。 

秦の苻堅が、主君の苻生を殺し、立って秦天王となった(357年)。王猛を推薦する者がいて、会ってみるとたちまち旧知のように思えた。みずから「まるで劉備が諸葛亮を得たようなものだ」と言って、一年のうちに五度も官を進めた。また人材を抜擢し、官署を整備した。民には農耕と養蚕を行わせ、困窮者を救った。秦の人々は善政を謳歌したのであった。
燕の国主慕容雋が死んで、子の慕容暐が立った(359年)。
晋では桓温が謝安を征西司馬に任命した。謝安は若い頃から高名で朝廷から招聘されていたが、出仕しなかった。士大夫たちは「安石が出てこなければ、この民くさは一体どうすればいいのだ」と口々に言い合った。四十を越えて官に就いたのである。
穆帝が在位十七年で崩じた(361年)。改元すること二回、永和・升平という。嗣子が無く、成帝の子の瑯琊王が即位した。これが哀皇帝である。


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