ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

聖書を読む事について

2013-09-16 15:42:00 | 読書
『考える生き方』finalvent著を読了した読後感想、二つ目。
読後感想からはかなり脱線する。


文中に書かれてある事が目に残った。


  私はキリスト教が趣味で、よく聖書を読んできたので…

                 (『考える生き方』finalvent著 ダイヤモンド社)


趣味というのは、聖書を読む事も含めキリスト教が好きで、
読んだり見たり聞いたりする事を楽しんでいるという意味であろう。
著者は聖書学をやめて他の学問に転向した。
初めの章を読むと気付くが著者はキリストが研究材料や標本ではなく
人生の同行者である事を知っていると思う。
身近で生きる人の中にキリストの気配が読み取れる。


私達信者は人間の現実の生き様にキリストの横顔や後姿を見出す事がある。
見えなくても気配を感じ取る事はよくある事で、
隣で呼吸する人にキリストの気配を感じて自分の生き方を問われ、
どう考えどう生きるかの指標となる。
聖書を研究する事とは別物だ。
この著者が生きる上で聖書学は無用の長物であっただろうと思う。
それはこの人のその後に体験した数々の苦難の部分を読み進めばわかる。


神のいる、光の差して来る方角に向かってどう生きるかという事と、
学問として聖書を研究する事とは、私も何の接点も見出せない。
私は著者が聖書学でなく別の事を選んだという部分を読んだ時、
思わず「そりゃそうだろう」と呟いた。




ところで、ここから脱線する。


私がこのように考える事は、私の所属する教会の牧師や教派の宣教師の日頃言う
「聖書を勉強しないと神を理解する事は出来ない」
という学識偏重な信仰のあり方とは相容れない部分である。


先日教会の聖書を読む会に出席した。
普段教会で行なわれている聖書研究会は文字通り聖書を研究する会である。
まず決められた聖書の箇所を輪読し、牧師が解説した後、
出席者が文脈や語句を理解しているかどうか質問を振り、理解の足りない部分には
更に解説を加え、新共同訳、新改訳、口語訳など幾つかの日本語訳の表現を照らし合わせて
比較検討したり、ギリシャ語では何と言う語句でどういう意味か、
それらを踏まえた上でこの箇所は文脈をどう解釈するべきか、をやっている。


その席で、参加していた協会員の一人から話しかけられた。

「私ってダメだわ。毎日聖書読めなくてさっぱり聖書の勉強してない。
 あなたは偉いわね。」

と聖書を日常で読めない事を自己卑下する発言をした教会員がいたので私は言った。

「本を買ったのだから読むのは当然の権利だから読むだけであって、
 読まなきゃならないものではないし、読んだからと言って、
 自分で買った本を読んで褒められるのはおかしいし、
 読まないからって落第する訳でもない、
 読め読めと追い立てられて読むくらいならむしろ読まない方がいいと思う。」

すると牧師が

「聖書を勉強しないと神を理解する事は出来ない」

と言った。
この考え方は所属する同じ教派の宣教師や他の牧師や教会代表達も同様である。


聖書を勉強しないと神を理解する事は出来ない、そうだろうか。
では、聖書を勉強し、研究し学問として極めれば神を理解出来るのか?
牧師は

「聖書を読むにしても聖書の読み方が問題だ」

と言う。
読み方とは日頃宣教師の言う

「私達の教派では聖書は皆で学ぶもの、一人で読んではならない。」

という意味である。
正しい読み方とそうでない読み方とを教派として分別する考え方である。
人が本を読む読み方にゴミの可燃と不燃を分別するようなものの見方が通用するのか。
自分達がより集まって「勉強する」その「勉強」が何故正しいと言えるのか。

「聖書は面白いが本を読むのは聖書もマンガも同じ、楽しんで読めばいい。」

と私が言うと、聖書の会の席上の会話はそれ以上続かなかった。


聖書を研究し神学を勉強すれば神を理解できるという学識偏重主義の刷り込みは
インテリ気取りの快感をもたらしてはくれて楽しかろうが、
それは一度現実の波風をちょっとでも被ったり少しでも揺さぶられたりすると
ものの一瞬で木っ端微塵にされ現実に生きる上では指標どころか毒にも薬にもならない。
私達はどうにもならない現実と向き合いながら日常を生きている。
聖書をあまり読まない信者に対して脱落した生徒を見るような受け止め方をしたり
日常の生活で様々な問題を抱え聖書どころか文字を読む余裕の無い信者が
自己卑下するのは脱線中の脱線であると思う。


当たり前の事であるが、
聖書の字面を読んだだけで神を知ったつもりになる人もいるにはいるが、
聖書を勉強などしなくても、或いは読めなかったとしても
信仰者として生きている人は大勢いる。


聖書は私達がキリストと出会うための唯一の手掛かりとなる文献であり、
そこから糧を得て信仰生活を生きている。
私も含め信者も人として色々の問題を抱えて生活している。
生きる上での指標を見出し糧とするために聖書を開く。
読んで慰めや励ましを受けてほっとする、或いは文中の登場人物に共感し涙したりする、
そういう読み方もあっていい筈。
人が生き物として腹が減ったら握り飯を食うのと同じ。
それを「しなければならない勉強」と聖書を位置づけるよりも、
もっと他にするべき事がある筈だと思うが、教会の席上でそこまで話は続かない。


聖書は楽しんで読む事も出来、慰めを得る事も可能と伝えたかっただけであるが
何か言えば言うほどその人は

「あなたは聖書読んでて偉いわね介護してたのに」

などと頓珍漢な反応をし、会では勉強する事を褒めてもっと熱心に学べと奨励するのみ。


聖書おたくになって研究する事が楽しいのも事実かも知れない。
実際、私自身受洗から7年間の間は幼稚に貪るという表現が当て嵌まるほど
やたら聖書を読み耽った。
勉強と言う意味づけはしていなかった。
むしろマンガの単行本を片っ端から読むと同様、分からない事は調べたり系図を書いたり
年表作ったりしながら日本語訳を取り替えて、ある箇所では酔っ払い、
ある箇所では登場人物に感情移入し涙して、気がついたら年間で4回も読み通していた。
他の本に目もくれず完全におたく。
(そういう意味では本代の節約になって聖書はお得だ。←愚)
聖書の面白さにはまり熱中して読み耽るのを見た高齢の教会員から当時警告された。

  そんなに勉強するんじゃねぇ。
  神様は人を救うけど学問は人を救わねぇ。
  余計な事考えないで迷子のちびっ子が親にむしゃぶりついてくみたいにさ、
  イエスさまーって行きな。
  大切なのはそれだけだ。

この人の言った事は正しかった。
当時から22年経った今、この人が私に言った事は真実だったと
どうしようもない現実に直面する今、私は実感を持ってそう確信する。
当時洗礼を授けて下さった牧師からも助言された。

  何もかも全部を理解できなくてもいいではありませんか、
  一番大切な事さえ知っていれば。
  イエス様が私達のために十字架にかけられた、そして甦られた、
  それさえ知っていれば充分。
  他のものは後からついて来る。

祈りを呼吸とし、聖書を糧として現実を生きてきた信仰者の言葉であり、
聖書を学び研究する事とは全くの別次元、別物。
学問は信者でなくても出来る事だ。
信者は聖書を手掛かりにして歩いて行く者なのだと思う。
途中脱線したり絶望したりしながら。


色々とくどい理由付け意味づけをして長々書いてきたが、
自分にとって聖書を読む動機は昔も今も同じ。


5歳の時に私はキリストに会いたいと思った。
しかし漢字が読めなかった。


小学生の時近所の教会の棚の聖書をこっそり手に取って盗み見たが
文字が細かくて多過ぎて読めなかった。


英語教室の先生をしていた教会の青年が子供用のをくれると言ってくれたが
子供用の聖書は本物ではない、本物を読みたいと思って貰わなかった。


キリスト教の大学入って「聖書を学べ」と推奨され、必修科目の単位のために
レポートを書かねばならなかった時、自分の眼が閉じていた。


長い期間読む事の叶わなかった聖書を30過ぎて自分で読む事が出来るようになった。
それは恵みであり有り難いと思った。
目で見る事が出来て読む事の出来るうちに、読んで文章を理解出来るうちに、
出来るだけ読んでおきたいと思う。
いずれ自分で読む事が出来なくなる時が必ず来る事を知っているからだ。

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2 コメント

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Unknown (tomo)
2013-09-18 17:34:22
祈りを呼吸とし、聖書を糧に現実を生きる、、、深い言葉ですね。最近奉仕が多くて礼拝で真から祈れてないようで、

今日はお休みだったので、散歩がてら都心にあるカソリック系の教会に行ってきました。広い礼拝堂の中で、みな静かに祈ってる、私も片隅にすわり誰も気にすることなく、祈ってました。久々に深呼吸できたみたいな不思議な気持ちです。

祈りをささげて聖書を読む。
他人の解説はいらない。聖書は生きる上での指標になるもの。

聖書を学ばなければ、神をしることはできない?
いやいや、人が神様を理解しようなんて思い上がりではないのでしょうか?

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そうですね。 (井上)
2013-09-18 21:23:40
>tomo様

 教会の奉仕も人手が足りないと
 奉仕当番の回って来るサイクルが早くなってきたりして
 仕事が休みの日曜日に教会の奉仕でへとへとに消耗して休養が全然取れなくて
 疲れがどんどん溜まっていきませんか?
 無償で働く第二の仕事みたいになっていた時期が私にもあって
 そういう時は自分自身を振り返るとか祈るなどの余裕は 精神的にも時間的にもありませんでした。
 よく奉仕する模範的信者であろうとして脱線していたと思います。
 
 「聖書を勉強しないと神を知る事は出来ない」
 というのはかなりひどい脱線だと私は思います。
 仰るとおり、
 読まなくてもいいとか勉強するなという意味ではなく、
 人間が神を理解できるつもりで聖書を勉強する事自体が
 不遜な思い上がりであり、むしろ大きく遠回りであると思います。
 まぁ、これを学識のある教職者に言ったところで伝わらないでしょうが。
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