ぱんくず日記

日々の記録と自己分析。

絶望について

2013-09-14 23:47:25 | 読書
『考える生き方』finalvent著を読了したので読後感想。


本文の中で著者は語っている。


「絶望は傲慢だと思う」


例えば作家の三浦綾子さんは生前その著作『道ありき』の中で
信仰の導き手であった恋人の前川正さんから教えられた事を書いている。

「自殺は殺人よりも罪が重い」


『道ありき』を読んだのは受洗前であったが、読んだ時には
自ら死ぬ事が他人を殺す事よりも罪が重いのは何故か、次のように解釈した。


殺人を犯した人には自分の罪を認め悔い改める可能性が残されている、
しかし自分の人生に絶望して自ら死んだ人は自分の罪を悔い改める事を放棄したので
その可能性が永久に無いからだ。


かれこれ22年も昔に読んで考えた事だ。
その後いつの誰の説教でだったか、本だったか、複数の人が同じ事を言っていた。


「絶望してはなりません。」


「私達人間の犯す最大の罪は、絶望です。」


「絶望する事は最大の罪だから…」


受洗直後に母教会でぬくぬくとしていた時には直面しなかったあらゆる現実の問題と
実際に自分が対峙しなければならなくなって、何か一つ越えたとか達成したとかして
やれやれとほっとした途端に、更に次々と起こる深刻な問題に何もかも蹴散らされる事を
何度も体験するうちに何か喜ぶべき事があっても


「今は糠喜びしているがどうせまた何か起こって無に帰すのだ」


という思いが常に自分の念頭にある。
教会でさも有り難そうに脳天気にパウロ書簡のテサロニケⅠの


「いつも喜んでいなさい」


の聖句が読まれたりすると無性に腹が立って頁ごとシュレッダーで粉砕したくなる。
腹を立てても現実は何一つ変わらず動かない。
相変わらず次から次と予想外のめんどくさい問題が起こる。
あれこれ試行錯誤し奔走して一つ解決すればすぐにまた次が来る。
腹の立つうちはまだ自分に血が通っている気がするが、そんな事ばかり続いていると
何かを望んだり期待したりする事が無くなった。
だから人から聞かれて一番困る質問は「望みが何か」を聞かれる事である。


「あなたの希望は何ですか」「どうしたいですか」「どうなりたいですか」


答えられないので苛立つ。
無いから。
そしてそこいらの模範解答的な言葉を寄せ集め繋ぎ合わせてテキトーに答えるか、
或いはいよいよ面倒臭くて「ありません」と答えるしかない。
そういう会話からして虫唾が走るほど大嫌いだ。
そして、この点こそが私自身の病巣であると思う。
誰に対して腹を立て苛立っているかといえば、相手は神である。


読み終えたfinalvent著『考える生き方』の中で著者は
「絶望は傲慢だと思う」と語っているが、これは私自身に当て嵌まる。
(以下引用)
  ↓

  …絶望を繰り返しているうちは、生きている。
   怖いことだが、絶望を繰り返していると、人間は傲慢になる。
   絶望というのは、「絶望だ」という判断に確信をもっていることだ。

  ・・・

  絶望というのは、意外と確信することが難しい。
  確信したかのように意気込んでいるとき、どこかしら傲慢になっている。
  まるで、神様に向かって、
  「あなたの作った世界や私の人生は、こんなひどいものでしたよ。
   あなたの負けで、私の絶望が勝ちです、わっはっは」
  というような感じだ。

  ・・・

  絶望というのは、人が神に勝つことなんだと思う。

             (『考える生き方』finalvent著 ダイヤモンド社)


鋭いと思う。


これまで何度かあった自殺企図の状態にある時の自分の心理状態を振り返ると
まさにこの状態にある。
「あなたの作った世界や私の人生は、こんなひどいものでしたよ。
あなたの負けで、私の絶望が勝ちです、わっはっは」
生まれてきて今生きている事をまるでいいものか何かのように誰かから
「井上さんお誕生日おめでとう」などと言われると、
この台詞がそっくり口から出そうになって自分に対する破壊衝動が起こる。


この本では絶望は人間が神に勝つ事だと言っている。
そうかも知れない。
絶望している自分は人でも物でも世の中でもなく、神に対して敵意を持っている。
「私の人生はくだらないものでした、だからこうして終わりにします、ざまあみろ」
と神を相手に毒づいている。
そして何でもいいから人生が早く終わってくれるのを待つ。
時間も物も労力も全て無駄なものになる。


著者の述べるとおり、傲慢以外の何ものでもない。


そうだ。
今思い出した、
誰かの説教を聴いたのではなく受洗直後に読んだ説教集の中の一文だった。


  「絶望してはいけない。
   どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
   ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
   ・・・(ヨハネ黙示録2;10)・・・
   これは慰めの言葉です。
   10日の間、苦難にあう、
   しかし11日目はないのです。
   苦難は必ず区切られる。
   無限に続くと思い込んではなりません。
   まさに信仰者とは
   11日目をめざして歩む者です。」

              (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局)


信仰者か。
受洗22年にして、
しみじみお粗末な者であると思う、自分と言う者は。

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