寝たのは朝になってからであるが、10時には覚醒した。
晴れているので時間無駄にしたくない。
とっとと起きて何処かに出掛けよう。
ナナカマドがもう赤い実を付けている。
まずじじ宅に行って換気をする。
ベランダで昨日の夕方開花したお化けアサガオがまだ緩く開いている。
空色の朝顔も咲いている。
空は完全に秋だ。
さて、出かける。
いつもは駅の下の地下道を通るが今日は大昔からある錆びた歩道橋を渡って
歩道橋の上から街を見る。
線路とか、鉄道の保線区とか機関区とかそういう場所に来ると無性に懐かしく
郷愁のような泣きたくなるような感情が起こる。
多分幼稚園にもまだ行かない年齢の頃に父親に連れられて
無言で線路を見ていた記憶があるからだろう。
車両の金属の擦れるような音やピーッという汽笛のような音に触発されて湧き起こるのは
深い意味は無く単純に感傷的な気分に過ぎないと思う。
歩道橋の上からしばらく線路を眺めていたが、通過する車両は無かった。
歩道橋を下り、歩いて橋まで来た。
音がする。
ドクターヘリだろうか、さっきから上空を行ったり来たりしている。
橋の上から光る川面をしばらく眺める。
歩いて坂を上がり、いつも行く崖に来た。
いつかのキタキツネはいない。
今日の海は静かだ。
草がぼうぼう伸び放題で私の背丈よりも高い。
坂を下って浜に向かう。
道の途中、庭に植えた花や野菜の手入れをしているご老人に行き会った。
挨拶すると「いいお天気ですね」とにこにこ笑った。
浜に来た。
試験採掘だという石炭を運ぶ貨車が一日に数回通過する線路。
ポイ捨て禁止
そりゃそうだ。
ご近所の方であろう、年配の旦那さんが人懐こいわんこさんを散歩させていた。
黒犬はじゃれ付いて来るのに携帯を向けると怖がって顔を背け、後ろを向いてしまう。
飼い主が笑った。
空も水も青い。
日差しが強い。
汗が流れるが、風がさっとひと吹きすると乾く。
水は透明で、触ると飛び上がるほどきりきりと冷めたい。
波は殆ど無い。
時間がゆっくりと動いている。
浜から別の崖に向かう。
急傾斜の坂を上ると脚は大丈夫なのに息が切れる。
頭がじりじり焼かれて眩暈がするので水筒から少し飲んだ。
見晴らしの良い崖に来た。
太陽がもう低く落ちかかっている。
海面を見ると氾濫する光で眼を焼かれる。
何年か前まで、この崖の中腹に小さな小屋のような一軒家があった。
一人で住んでいて病院から往診の医師と看護師来たり、
老健のデイサービスの迎えの職員達が四つん這いで草を掻き分けて
中腹の家で独居する人を訪ねていたという。
その家も今は取り壊されて跡形も無い。
人が踏み分けた細い分け目のような道が辛うじて残っている。
崖からの眺望。
海は青い。
真下を見下ろすと石炭を運ぶ線路。
坂を下って見晴らし台のある公園に来た。
港に日が落ちようとしている。
しばらく港を眺めた。
船が行き来している。
狭い港内を二隻の船が交差した。
いつもはここで帰路に着くのであるが、今日はこの下の古い区域を
線路伝いに、さっき崖から見下ろした砂浜に下りてみる。
坂を下りて寂れに寂れた崖下の区域に行く。
港を見渡した見晴台が頭の上に見える。
何だか寂れて人気の無い場所。
道案内の看板が錆びて読めない。
海沿いなので塩分でやられるのだろう。
民家はあるが、半分は倒壊寸前のまま放置された廃屋と、
昭和30年代によく見かけた形の長屋が空き家となったまま、
少し進むと廃業した小さな商店の空き店舗。
合間に最近増改築した民家が何軒かある。
M8クラスの大地震を何度も体験しているこの土地の、
しかも崖下の海沿いぎりぎりに住む住民のための避難経路。
万一大規模な地震が来て津波が襲って来た場合、この急斜面の避難経路を
この地域の高齢者達は崖の上まで這い上がるのだ。
倒壊寸前の木造家屋。
いつの時代のものだろう。
終戦後か、戦前からここにあるのか。
「横綱わた」の看板が残っている。
人の住んでいる民家の玄関先に猫達が集まっている。
玄関先に茶トラ一匹、焦げ茶トラは二匹いる。
黒は全部で何匹いるだろう?
奥さんらしき人が出て来て道路の反対に吊るした網籠を持って来ると
猫達が一斉に終結し、奥さんの後を追ってガレージに雪崩込んだ。
干した魚のおこぼれに与れるのだろう。
どの猫も痩せており、どう見ても野良。
石炭を運ぶ線路に出る。
私がここを上から見下ろしていた崖が左手にある。
夕暮れの砂浜。
風が冷たくなってきた。
よくバスに乗って行く郊外の浜とは匂いが違う。
磯臭いとはこういうのを言うのだろうか、生臭いような昆布のふやけたような匂いで
鼻を刺激されると思ったら、ここは昆布や海藻がそこら中に落ちている。
ぼんやり海を眺めながら歩いてなどいると落ちている昆布や網や綱が
足に絡まって転びそうになる。
オオセグロカモメやカラスが何かウマそうなものを探している。
つがいらしき二羽のカラスが小声で何か喋りながら波打ち際の砂をほじくっている。
風で波打つ砂浜の草。
いよいよ日が暮れる。
早く街に戻らないと。
空き家となった長屋の向かいに、来る時は気付かなかった小さな古い祠がある。
何を祀っているのかはわからない。
崖の上の住宅街を見上げると鉄塔やアンテナがたくさん立っている。
歩いて橋の上まで戻って来てみると、橋の上に大勢の人だかりが。
それぞれ手に大きな望遠レンズ付きのカメラやすまほやデジカメを持って
日没の写真を撮ろうとしているらしい。
川の真ん中に日が沈むのはまだもう少し先かな。
彼岸の少し前頃がいいかも。
今日は雲があるし、でかい船もいて見え難い。
日が落ちた途端橋の上に集まっていた人々はぞろぞろと各自の行き先に散って行く。
沈んだ後の夕焼けの色がいいんだけどな本当は。
岸壁に明かりが点いた。
バス停に行くと、じじの病院に行くバスが次に来るまで10分少し時間あり。
そのままバス待ちしながら読みかけの本を読む。
昼前から出かけて日没まで徘徊し続け、
満充電しておいた携帯の電池も使い果たして24138歩。
不思議と脚足は痛くない。
晴れているので時間無駄にしたくない。
とっとと起きて何処かに出掛けよう。
ナナカマドがもう赤い実を付けている。
まずじじ宅に行って換気をする。
ベランダで昨日の夕方開花したお化けアサガオがまだ緩く開いている。
空色の朝顔も咲いている。
空は完全に秋だ。
さて、出かける。
いつもは駅の下の地下道を通るが今日は大昔からある錆びた歩道橋を渡って
歩道橋の上から街を見る。
線路とか、鉄道の保線区とか機関区とかそういう場所に来ると無性に懐かしく
郷愁のような泣きたくなるような感情が起こる。
多分幼稚園にもまだ行かない年齢の頃に父親に連れられて
無言で線路を見ていた記憶があるからだろう。
車両の金属の擦れるような音やピーッという汽笛のような音に触発されて湧き起こるのは
深い意味は無く単純に感傷的な気分に過ぎないと思う。
歩道橋の上からしばらく線路を眺めていたが、通過する車両は無かった。
歩道橋を下り、歩いて橋まで来た。
音がする。
ドクターヘリだろうか、さっきから上空を行ったり来たりしている。
橋の上から光る川面をしばらく眺める。
歩いて坂を上がり、いつも行く崖に来た。
いつかのキタキツネはいない。
今日の海は静かだ。
草がぼうぼう伸び放題で私の背丈よりも高い。
坂を下って浜に向かう。
道の途中、庭に植えた花や野菜の手入れをしているご老人に行き会った。
挨拶すると「いいお天気ですね」とにこにこ笑った。
浜に来た。
試験採掘だという石炭を運ぶ貨車が一日に数回通過する線路。
ポイ捨て禁止
そりゃそうだ。
ご近所の方であろう、年配の旦那さんが人懐こいわんこさんを散歩させていた。
黒犬はじゃれ付いて来るのに携帯を向けると怖がって顔を背け、後ろを向いてしまう。
飼い主が笑った。
空も水も青い。
日差しが強い。
汗が流れるが、風がさっとひと吹きすると乾く。
水は透明で、触ると飛び上がるほどきりきりと冷めたい。
波は殆ど無い。
時間がゆっくりと動いている。
浜から別の崖に向かう。
急傾斜の坂を上ると脚は大丈夫なのに息が切れる。
頭がじりじり焼かれて眩暈がするので水筒から少し飲んだ。
見晴らしの良い崖に来た。
太陽がもう低く落ちかかっている。
海面を見ると氾濫する光で眼を焼かれる。
何年か前まで、この崖の中腹に小さな小屋のような一軒家があった。
一人で住んでいて病院から往診の医師と看護師来たり、
老健のデイサービスの迎えの職員達が四つん這いで草を掻き分けて
中腹の家で独居する人を訪ねていたという。
その家も今は取り壊されて跡形も無い。
人が踏み分けた細い分け目のような道が辛うじて残っている。
崖からの眺望。
海は青い。
真下を見下ろすと石炭を運ぶ線路。
坂を下って見晴らし台のある公園に来た。
港に日が落ちようとしている。
しばらく港を眺めた。
船が行き来している。
狭い港内を二隻の船が交差した。
いつもはここで帰路に着くのであるが、今日はこの下の古い区域を
線路伝いに、さっき崖から見下ろした砂浜に下りてみる。
坂を下りて寂れに寂れた崖下の区域に行く。
港を見渡した見晴台が頭の上に見える。
何だか寂れて人気の無い場所。
道案内の看板が錆びて読めない。
海沿いなので塩分でやられるのだろう。
民家はあるが、半分は倒壊寸前のまま放置された廃屋と、
昭和30年代によく見かけた形の長屋が空き家となったまま、
少し進むと廃業した小さな商店の空き店舗。
合間に最近増改築した民家が何軒かある。
M8クラスの大地震を何度も体験しているこの土地の、
しかも崖下の海沿いぎりぎりに住む住民のための避難経路。
万一大規模な地震が来て津波が襲って来た場合、この急斜面の避難経路を
この地域の高齢者達は崖の上まで這い上がるのだ。
倒壊寸前の木造家屋。
いつの時代のものだろう。
終戦後か、戦前からここにあるのか。
「横綱わた」の看板が残っている。
人の住んでいる民家の玄関先に猫達が集まっている。
玄関先に茶トラ一匹、焦げ茶トラは二匹いる。
黒は全部で何匹いるだろう?
奥さんらしき人が出て来て道路の反対に吊るした網籠を持って来ると
猫達が一斉に終結し、奥さんの後を追ってガレージに雪崩込んだ。
干した魚のおこぼれに与れるのだろう。
どの猫も痩せており、どう見ても野良。
石炭を運ぶ線路に出る。
私がここを上から見下ろしていた崖が左手にある。
夕暮れの砂浜。
風が冷たくなってきた。
よくバスに乗って行く郊外の浜とは匂いが違う。
磯臭いとはこういうのを言うのだろうか、生臭いような昆布のふやけたような匂いで
鼻を刺激されると思ったら、ここは昆布や海藻がそこら中に落ちている。
ぼんやり海を眺めながら歩いてなどいると落ちている昆布や網や綱が
足に絡まって転びそうになる。
オオセグロカモメやカラスが何かウマそうなものを探している。
つがいらしき二羽のカラスが小声で何か喋りながら波打ち際の砂をほじくっている。
風で波打つ砂浜の草。
いよいよ日が暮れる。
早く街に戻らないと。
空き家となった長屋の向かいに、来る時は気付かなかった小さな古い祠がある。
何を祀っているのかはわからない。
崖の上の住宅街を見上げると鉄塔やアンテナがたくさん立っている。
歩いて橋の上まで戻って来てみると、橋の上に大勢の人だかりが。
それぞれ手に大きな望遠レンズ付きのカメラやすまほやデジカメを持って
日没の写真を撮ろうとしているらしい。
川の真ん中に日が沈むのはまだもう少し先かな。
彼岸の少し前頃がいいかも。
今日は雲があるし、でかい船もいて見え難い。
日が落ちた途端橋の上に集まっていた人々はぞろぞろと各自の行き先に散って行く。
沈んだ後の夕焼けの色がいいんだけどな本当は。
岸壁に明かりが点いた。
バス停に行くと、じじの病院に行くバスが次に来るまで10分少し時間あり。
そのままバス待ちしながら読みかけの本を読む。
昼前から出かけて日没まで徘徊し続け、
満充電しておいた携帯の電池も使い果たして24138歩。
不思議と脚足は痛くない。
釧路は夕日がきれいだったことを思い出しました
こっちの生活は、どっからお日様がのぼってくるのかわからない、、、、、((+_+))
私も札幌在住の頃は空なんかまともに見た事無かったですが、
こちらは日の出も日の入りもよく見えます。
地形が凄く面白いからですねきっと。
街が寂れようとどうなろうと地形と日の出日の入は変わりませんから
これも恵まれた土地であるとも言えます。
身内に旧国鉄関係者はいないのですが、
私も線路や保線区、機関区を見るのが好きで、
井上さん同様に、泣きたい気分になります。
14歳で鉄道学校に入り、旧国鉄の機関士だったお父様が、
職務中の事故で右脚を轢かれ、長い入院生活を終えてから、
夜間の定時制に通い経理を身につけ、新たに鉄道管理局の
経理部に復職された話を読み、胸がいっぱいになりました。
夜間の定時制に通い、知識と資格を獲得し、
畑違いの仕事に再就職した不屈の精神は、
井上さん父娘の共通点です。
東京の南千住に「義肢装具サポートセンター」があります。
前身は、旧国鉄が公傷退職者やその家族、
職務中の不慮の事故で手足を失った職員のために設立した
職域福祉事業で、一貫して「鉄道弘済会」が運営しています。
何年か前に、知人に誘われ、「義肢装具センター」の地域交流会に
参加した事があります。
国鉄関係者に対象が限られていた製作と修理が、今現在は一般に門戸を開き、
パラリンピック選手の義肢を手掛けるまでに、技術も進んでいます。
旧国鉄時代、公傷を負った職員のための事業が形を変えながらも引き継がれ、
今も変わらず身体に障害を負った人々の生きる希望を支えています。
旧国鉄の弱者への愛のDNAは、今もJR貨物の車両基地の近くで息づいています。
父は終戦直後の物の無い時代に、
たまたま奇跡的に助かったのでした。
骨髄炎まで進行していたので死んでも不思議はありませんでした。
切断もせず回復し、以後定年まで働きました。
本人はその事をどのように思っていたかかもう知る事が出来ません。
助けられ生かされたと思ったか、自分の努力で回復したと思ったか。
お父様は、不運な事故による絶望的な状況から這い上がり、
見事に国鉄一筋の職業人生を全うされました。
お父様のご努力の賜物であるのは間違いないですが、
お父様は、確かに、社縁に恵まれていました。
昭和一桁生まれの男にとって、職場は大切な居場所。
国鉄の黄金期を共に支え、苦楽を共にし、最後まで共に走り抜いた
戦友であり、かつ、家族のようでもあった社縁関係者のことを、
最晩年も、満足げに懐古されていたと思います。
娘と過ごした蜜月の日々は、娘から許され、癒された至福の時間でした。
お顔は、存じ上げないですが、お父様の幸せそうな笑顔が目に浮かぶようです。
腕によりを掛けた娘の美味しい手料理を共に味わい、
キリストについて共に語り合う何物にも代え難い充実したひとときを
娘の眼差しに見守られながら丁寧に積み重ねる日々を経て、
お父様は、この世に何一つ思いを残すことなく、天に旅立たれました。
私は、心からそう思います。
ありがとうございます