今にも降り出しそうであるが、10:00現在まだ何も降ってきていない。
休日を字義通り寝て休んで費やして終えると疲労が残る。
寝て過ごすよりもむしろ仕事とは無縁な事に没頭して時間を費やして初めて休日となり得る。
しかし天気が曇りで生暖かいためか寝過ごした。
今日は読み終えた押田成人『地下水の思想』からメモ書きを取って付箋紙を外す作業をする。
以下、メモ。
抽出した事柄について考えた事を後で別のブログに書くため備忘。
―因縁ということ―
見つめていたものは違っていたかもしれないが、
私にも、あるみつめるものがあって、死ねないと思っていた。
こういう体験というものは、ただ体験にとどまるものではなく、存在の在り方に痕跡を残す。
(押田成人『地下水の思想』 1986新潮社)
―白い鹿―
崩壊的文明を脱出するには、もとより人間的苦悶では足りない。
しかし存在の神秘の地平を開顕するために、
その扉を叩きつづける者の息(い)に載るものが、いのりである。
崩壊の彼方への祈りである。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―馬鹿者―
「ここには、ただ神とあなただけが存在するのだ。」
この言葉は、たえず、私にとって公案たりつづけた。
それはいわゆる教えではなかった。
生涯、私の存在にかかわる事件であった。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―コトは手なり―
「祈りについて、一番大事なことは何ですか。」
「心の最初の動きが、愛であること……」
「それは、むずかしいな。二番目の動きではいけませんか?」
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―歴史は遥かなもの―
国家的、あるいは君主的企図が権威によって真理の装いをさせられる時、
その夢の前に、道理ある洞察が通じないのである。
こういう状態が永く続くと、人々の心には、どうせ通じないのだ、仕方がない、
という諦めの気持ちが生れ、定着する。
このことがよくわからない人は、
自分の行動の内的動機が何であるかを内省してみるとよい。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―人間は死んだ―
普通、小学校前の子には、存在の神秘に対する驚きの感覚、畏敬の気持ちが残っているが、
小学校の教育と共に、急速にそれらは死滅し、ただ教えられた仕方に応じて考える、
という機械化した、合理的思考の奴隷となってゆく。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―ある先生達―
自分が把握できないものは、取り出すことは出来ない。
それを取り出し得ると錯覚する。
結局、自分の幻想を取り出す。
原子爆弾がそのよい例なのだ。
これだけの誤謬の蓄積を前にして、
論理的思考絶対主義という安楽椅子の中で、人は、いつまで惰眠をむさぼる気なのだ!
今の科学が、一つの偶像礼拝であることを、明白に指摘する科学者が一人もいないのか!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―人生は数のためにあるのか?―
数を追う者は、数によって蒸発する!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―冬の花―
人間は、自分の造ったものに取り囲まれ、その中に埋まるとき、自分を喪失する。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
・・・・・
11:31。
本格的に降ってきた。
根雪になりそうだな。
・・・・・
―個と全体―
個と全体というものは、本来的に響き合う。
しかし、その本来的響き合いが実現するのは、一人一人の個が、従って全体が、
何か永遠なるものに向かって底が抜けているとき、
あるいは少なくとも、それを願っているとき、なのだ。
そうでないとき、人間は、偶像を、夢を追う。個と全体は殺し合う。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
― 味の本体―
水でも土でも草でも太陽でも、生きとし生きるすべての存在の奥に、
論理が死に果てた後、遥か遠くに在る何か、がある。
存在の根底に、逆説の原理がある!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―小さなお守り―
一番大事なのは、純正な動機があるかどうかということ、
深みからの風に誘われたかどうかということだ。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―小さなお守り―
あなたが人々に期待する まごころを 先ず人々に与えなさい
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―専門馬鹿―
分業というのは、本来、全体がうまく行くためのものである。
この貢献を豊かにするために、専門的究明、というものがある。
ところが、分業や専門が独立して、自分のために歩み始めるとき、
人間への反逆があらわれる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―知性なき知識人―
論理的思考が実りをもたらさぬ場合に二つある。
一つは、思考者の存在に深い根が無い場合。
彼らは、観念的に饒舌する。
二つは、思考者が、最初から、すべては理解し得るものだ、という傲りの中にある場合である。
すべてを理解し得る物と感じ、それに対して何をしてもよい対象物と念ずる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―知性なき知識人―
本当の知性というものは、生命がけで生きている人に与えられる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―まごころと故郷―
家というものは、仕上がると不幸がやって来る。
仕合せな家は、決して仕上がらない家なのだ。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
・・・・・
随分長い期間かかって少しずつ読み終えた。
読んで終わるだけの本ではなかった。
さて、出かける。
積もりそうだ。
雪の中、薬店へ買い出しに行って来た。
途中ふかふかの新しい雪を漕いで歩き、3回転んだ。
積もった雪に隠されている地面の氷が見えず、滑った。
岸壁の商業施設にて観光客御用達アイスを食べる。
雪を漕いで歩いたため汗だくだ。
必要以上に下肢の筋肉疲労を感じる。
あっという間に日が暮れた。
雪はほんの2、3時間しか降らなかったが根雪になるほど積もった。
まだ殆ど除雪されていない。
最後にスーパーで食材を買って来た。
大根重たい。
・・・・・
おでんを煮た。
朝にはもっと味が染みている事だろう。
明日出勤前に母宅にも差し入れよう。
休日を字義通り寝て休んで費やして終えると疲労が残る。
寝て過ごすよりもむしろ仕事とは無縁な事に没頭して時間を費やして初めて休日となり得る。
しかし天気が曇りで生暖かいためか寝過ごした。
今日は読み終えた押田成人『地下水の思想』からメモ書きを取って付箋紙を外す作業をする。
以下、メモ。
抽出した事柄について考えた事を後で別のブログに書くため備忘。
―因縁ということ―
見つめていたものは違っていたかもしれないが、
私にも、あるみつめるものがあって、死ねないと思っていた。
こういう体験というものは、ただ体験にとどまるものではなく、存在の在り方に痕跡を残す。
(押田成人『地下水の思想』 1986新潮社)
―白い鹿―
崩壊的文明を脱出するには、もとより人間的苦悶では足りない。
しかし存在の神秘の地平を開顕するために、
その扉を叩きつづける者の息(い)に載るものが、いのりである。
崩壊の彼方への祈りである。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―馬鹿者―
「ここには、ただ神とあなただけが存在するのだ。」
この言葉は、たえず、私にとって公案たりつづけた。
それはいわゆる教えではなかった。
生涯、私の存在にかかわる事件であった。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―コトは手なり―
「祈りについて、一番大事なことは何ですか。」
「心の最初の動きが、愛であること……」
「それは、むずかしいな。二番目の動きではいけませんか?」
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―歴史は遥かなもの―
国家的、あるいは君主的企図が権威によって真理の装いをさせられる時、
その夢の前に、道理ある洞察が通じないのである。
こういう状態が永く続くと、人々の心には、どうせ通じないのだ、仕方がない、
という諦めの気持ちが生れ、定着する。
このことがよくわからない人は、
自分の行動の内的動機が何であるかを内省してみるとよい。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―人間は死んだ―
普通、小学校前の子には、存在の神秘に対する驚きの感覚、畏敬の気持ちが残っているが、
小学校の教育と共に、急速にそれらは死滅し、ただ教えられた仕方に応じて考える、
という機械化した、合理的思考の奴隷となってゆく。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―ある先生達―
自分が把握できないものは、取り出すことは出来ない。
それを取り出し得ると錯覚する。
結局、自分の幻想を取り出す。
原子爆弾がそのよい例なのだ。
これだけの誤謬の蓄積を前にして、
論理的思考絶対主義という安楽椅子の中で、人は、いつまで惰眠をむさぼる気なのだ!
今の科学が、一つの偶像礼拝であることを、明白に指摘する科学者が一人もいないのか!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―人生は数のためにあるのか?―
数を追う者は、数によって蒸発する!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―冬の花―
人間は、自分の造ったものに取り囲まれ、その中に埋まるとき、自分を喪失する。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
・・・・・
11:31。
本格的に降ってきた。
根雪になりそうだな。
・・・・・
―個と全体―
個と全体というものは、本来的に響き合う。
しかし、その本来的響き合いが実現するのは、一人一人の個が、従って全体が、
何か永遠なるものに向かって底が抜けているとき、
あるいは少なくとも、それを願っているとき、なのだ。
そうでないとき、人間は、偶像を、夢を追う。個と全体は殺し合う。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
― 味の本体―
水でも土でも草でも太陽でも、生きとし生きるすべての存在の奥に、
論理が死に果てた後、遥か遠くに在る何か、がある。
存在の根底に、逆説の原理がある!
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―小さなお守り―
一番大事なのは、純正な動機があるかどうかということ、
深みからの風に誘われたかどうかということだ。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―小さなお守り―
あなたが人々に期待する まごころを 先ず人々に与えなさい
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―専門馬鹿―
分業というのは、本来、全体がうまく行くためのものである。
この貢献を豊かにするために、専門的究明、というものがある。
ところが、分業や専門が独立して、自分のために歩み始めるとき、
人間への反逆があらわれる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―知性なき知識人―
論理的思考が実りをもたらさぬ場合に二つある。
一つは、思考者の存在に深い根が無い場合。
彼らは、観念的に饒舌する。
二つは、思考者が、最初から、すべては理解し得るものだ、という傲りの中にある場合である。
すべてを理解し得る物と感じ、それに対して何をしてもよい対象物と念ずる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―知性なき知識人―
本当の知性というものは、生命がけで生きている人に与えられる。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
―まごころと故郷―
家というものは、仕上がると不幸がやって来る。
仕合せな家は、決して仕上がらない家なのだ。
(押田成人『地下水の思想』1986新潮社)
・・・・・
随分長い期間かかって少しずつ読み終えた。
読んで終わるだけの本ではなかった。
さて、出かける。
積もりそうだ。
雪の中、薬店へ買い出しに行って来た。
途中ふかふかの新しい雪を漕いで歩き、3回転んだ。
積もった雪に隠されている地面の氷が見えず、滑った。
岸壁の商業施設にて観光客御用達アイスを食べる。
雪を漕いで歩いたため汗だくだ。
必要以上に下肢の筋肉疲労を感じる。
あっという間に日が暮れた。
雪はほんの2、3時間しか降らなかったが根雪になるほど積もった。
まだ殆ど除雪されていない。
最後にスーパーで食材を買って来た。
大根重たい。
・・・・・
おでんを煮た。
朝にはもっと味が染みている事だろう。
明日出勤前に母宅にも差し入れよう。