光市母子殺人事件の被害者遺族である本村洋さんが、加害者の人権ばかりに目を向けていた司法を動かし、犯罪被害者のための人権を確立するまでの闘いが、光市母子殺人事件の裁判を通して描かれています。
数々のエピソードや出来事は、裁判報道によって記憶しているものばかりですが、そのほとんどを記憶しているということは、私自身がこの裁判を注視してきたこともありますが、それ以上に本村さんの発するメッセージが強かった、強烈だったからだと思います。
加害者であるFこと福田は、極刑と対峙することで謝罪の念を抱くようになりますが、一方で誰の目にも無謀であると感じられた過失致死の主張を真実であると主張するのでした。
涙なくしては読めません。
★の評価をすべきものではありませんので、評価はありません。
事件に興味をお持ちの方にはお薦めします。
数々のエピソードや出来事は、裁判報道によって記憶しているものばかりですが、そのほとんどを記憶しているということは、私自身がこの裁判を注視してきたこともありますが、それ以上に本村さんの発するメッセージが強かった、強烈だったからだと思います。
加害者であるFこと福田は、極刑と対峙することで謝罪の念を抱くようになりますが、一方で誰の目にも無謀であると感じられた過失致死の主張を真実であると主張するのでした。
涙なくしては読めません。
★の評価をすべきものではありませんので、評価はありません。
事件に興味をお持ちの方にはお薦めします。
内容紹介
判決、死刑――。最愛の妻子が殺害されたあの日から、9年。
妻子を殺された深い哀しみの中、幾度となく司法の厚い壁に跳ね返され、なおも敢然と挑んだ青年。だが、それは決して孤高の闘いではなかった。自殺を考え、絶望の海を彷徨う青年の陰には、彼を励まし、支えつづけた人たちがいた。筆者は、青年が毅然とした姿勢を貫くまでに展開された凄絶なドラマを丹念に追う。
そして、9年にわたった青年との闘いの末に「死刑判決」を受けた元少年が判決翌朝、筆者に伝えた意外な言葉とは――。光市母子殺害事件を圧倒的な取材と秘話で綴った感動と衝撃の記録。
抜粋 本文紹介~「プロローグ」より
青年は、こぶしを握りしめて震えていた。
視線は一点に注がれ、そこから動かない。テーブルの上にあるコップを見ているの
か。それともその中にある水を凝視しているのか……。いや、どちらでもない。
彼の視界には、何も入っていない。彼は、空(くう)を見ている。そう思えた。
大きく息を吐いて、その青年は、こう言った。
「僕は……、僕は、絶対に殺します」
不気味に迫力のある声だった。押し殺しているだけに、それは余計凄みを感じさせ
た。
その瞬間、店の中の客が、何人かぎょっとして私たちの方を振り向いた。
一九九九年八月十一日、北九州市・小倉北区の薄暗い喫茶店で、私と青年は向かい
合っていた。
紺色のTシャツに縁なしのメガネをかけ、スポーツ刈りよりも短く切りそろえた髪。
本来は優しくて愛嬌のある目が、これ以上はないほどの憎しみに震えていた。
どうにもならないこの感情をどうすればいいのか。その目は、怒りと憎悪の行き場
が見つからない苛立ちと、もどかしさに支配されていた。
まだ二十三歳で、学生の雰囲気を残している青年の名は、本村洋。のちに、日本の司
法を大変革させていくことになる人物である。
(中略)
それから九年。
一審の山口地裁、二審の広島高裁とも無期懲役。だが、最高裁での差し戻し判決。
その末に青年は、ふたたび広島高裁での差し戻し控訴審に臨んだ。
何度も挫折を繰り返し、司法の厚い壁に跳ね返され、絶望の淵に立ちながらも、青
年はこの日、ついに犯人の「死刑判決」を勝ち取った。
人は、これを九年にわたる青年の「孤高の闘い」だったという。巨大弁護団を一人で
敵にまわして、今は亡き妻と娘のために、若者が愛と信念の闘いを最後まで貫いた―
―と。
だが、その裏には、この九年間、青年を支えつづけた、これまた信念の人たちがい
た。
闘いに破れ、自殺をも考えたこの青年を、その度に「闘いの場」に引き戻し、正義
の力を説きつづけた人たちがいた。
これは、妻と娘を殺された一人の青年の軌跡と、その青年を支え、励まし、最後ま
で日本人としての毅然たる姿勢を貫かせ、応援しつづけた人たちの物語である。
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