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古代文明の不思議

2006年10月25日 | 科学

古代の遺跡には、多くの謎が秘められています。考古学の世界で、そうした謎を解明すべく、さまざまな発掘や分析が行われているにも関わらず、未だに多くの謎が分からないままになっています。「古代遺跡」、「謎」といった単語で、インターネットで検索すると、それこそ山のように検索結果が表示されます。

考古学の権威と呼ばれている先生たちは、科学の最先端に身を置き、こうした謎を解明していく世界において頂点に位置する存在です。しかし、彼らの高い専門性をもってしても、未だに分からないものは分からないというのが、古代遺跡の不思議なのです。

例えば、ギザのピラミッド。世界で最も有名で、エジプトの砂漠の中にそびえ立つ3つのピラミッドと言えば、誰でも知っているでしょう。そのピラミッドの大きさは、尋常ではありません。最も大きなクフ王の墓とされるピラミッドは、平均2.5トンの石灰岩を約230万個積み上げなければならないといいます。ギリシアの歴史家ヘロドトスによると、「10万人が年に3ヶ月働いて完成まで20年かかった」ということらしいです。1978年に大林組が出した見積もりでは、建設に約1250億円かかるといいます。現代工法をもってしても、大変な建設工事だったというのに、それをどのように人力だけで成し得たのでしょうか。

ピラミッドの謎は、その大きさだけではありません。驚くべきは、その精巧さです。例えば、ピラミッドを上から眺めると、正方形になりますが、その一辺は230m。これら四辺の誤差は20cm以下であり、誤差率はなんと0.1%以下。この誤差率は、現代建築でも難しい数字らしいのです。この他、ピラミッドの傾斜角度や内部にある回廊や階段のつくりの精巧さなど、現代の工法でも難しいと思われるものがいくつも指摘されています。 これらのことは、実際にピラミッドという建造物が実在するにもかかわらず、規模や精度の点で、とても説明がつかない、いわゆるミステリーであることを表しているのです。

そもそも、ピラミッドは王の墓というのが一般的ですが、実際のところ墓であったかどうかさえ分かっていないのが実情でなのです。日本にも、ピラミッド研究の権威がいらっしゃいますが、その先生でさえ、「ピラミッドは墓地ではなく、この地上に来世を象徴するために建てたものという考え方が自然で、確認された未知の空洞内に王の遺体が埋葬されているとは考えにくい」と語っていますし、ピラミッドの謎についても「何のために作られたのかとか、どうやって作ったのかとか、何年かかったのかとか、誰が作ったのかとか、もう言い出したらキリがありません」と言っています。つまり、現代の科学では、ピラミッドの本質的な謎について、ほとんど解明できていないのです。

ピラミッドだけではありません。空中都市マチュピチュ、インカ遺跡、モアイ像、ストーンヘンジ、兵馬傭、ナスカの地上絵、与那国島の海底神殿、モヘンジョダロ・・・。古代遺跡には、謎がつきものです。しかし、これだけ多くの遺跡の謎が、科学的に解明されないというのは、むしろ現代の科学の枠組みに限界があるということを意味してはいるのではないかと思うのです。

つまり現代の科学は、体系立った各学問分野に分かれており、古代遺跡の解明は、主として考古学の枠組みのなかで進められています。しかし実際に、古代遺跡の問題の本質は、こうした枠組みを超えたところにあるのではないかと思うのです。

例えば、古代遺跡の大きさや精巧さは、高い技術力を必要とします。したがって、古代の人類は、そうした高い技術力を有していたという仮説を立て、それが証明されれば謎は解明するのかもしれません。それは考古学の範囲を大きく超えていますが、今の枠組みで謎が解明できない以上、真剣にその謎を解明しようとするならば、その範囲を超えた発想で取り組むべきであり、それが真に謎の解明を追及する者の姿であると言えると思うのです。

こうした難問を解決するためのアプローチは、仮説と検証の繰り返しです。ある仮説を立てて、検証を進める。その仮説が違っていれば、また別の仮説を立て、検証をする。この繰り返しを続けることによって、だんだんと物事の本質が見えてくるのです。 古代遺跡の謎を解明するために、「古代の人類が高い技術を有していた」という仮説を立てたとします。まさにオカルトの世界です。しかし、一般的に常識と言われる感覚だけで、オカルトを切り捨ててはなりません(「オカルトを作る仕組み」参照)。先入観や固定観念を捨て、この仮説を真剣に検証していく必要があるのです。そして、その検証の繰り返しのなかで、この仮説を明確に否定できる根拠がない限りにおいては、この仮説は生き続けるのです。

検証を進めていこうとすると、考古学という学術分野を越えて、以下のような難問にぶつかるかもしれません。

<古代人はどうしてそんな高い知能をもったのか。人間はどのように生まれ、進化したのか>
 これは遺伝子学、人類学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「「進化論」の不自然」参照)

<人間本来の脳の機能とは何か。古代人は脳の機能を活用しきっていたのか>
 これは医学、生物学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「脳力の可能性」参照)

<現代人の脳機能は欠落していないか。人間はきちんと幸せを理解しているのだろうか>
 これは宗教学、哲学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「生きがいと幸せ」、「人間の優劣と競争社会」、「宗教が説く真理」参照)

これは仮説の連鎖です。ある仮説を検証するのに、また別の証明されていない仮説を持ち出すという繰り返しを強いられることもあります。しかし、大事なことはその反復と積み重ねです。その繰り返しを続けることで、膨大な否定し得ない大仮説が生まれてくるでしょう。これは科学の常識を覆すような大仮説に発展する可能性があります。現代科学の学問体系を言い訳にして、この作業を避けていては、絶対にたどり着けない領域があります。

<縦割り化された科学の体系で、真理を追究できるのか。何故、ここまで細分化されたのか>
 科学の外側の問題だから、検証できないと言ってはならない。
 (「万能でない科学」参照)

まず現代科学の枠組みから疑う。現代科学の枠組みを超えた、仮説と検証を繰り返すことで、今、世界で起こっていることが見えてくるのです。世界がどこに向かっているのかが見えてきます。そして、自分たちが何を成すべきかが見えてきます。地球環境の破壊も進み、人類ひとりひとりが変わらないといけないこの時代。世界で起こっていることから目を背けず、現実を見つめることが各個人に求められているように思うのです。

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