常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

心に響く叱り方

2007年01月27日 | 教育

今日、ちょっと街に繰り出して、買い物をしていました。

食べ物屋さんの前で並んでいると、すぐそばに親子連れが一組。子供が小石を拾い上げて、建物に傷を付けようとしていました。すかさず、お母さんが注意しました。

「ほら、ダメよ。すぐそこに、おまわりさんもいるでしょう!」

そうそう。その建物の隣は交番。おまわりさんにみられたら大変です。子供はびっくりして、小石を地面に戻しました。お母さんは、子供が建物に傷をつけるという行為を止めることに成功したのです。

ところで、これは本当に正しい叱り方なのだろうか・・・?疑問が沸いてきます。

おまわりさんがいるからいけないのか?
建物に傷を付けることがいけないのか?

子供にはよく分からなかったのではないでしょうか。本来、子供に対して、建物に傷を付けることが悪いことであるということをきちんと理解させるべきでしょうが、お母さんにしてみれば、「おまわりさん」を引き合いに出したほうが説明しやすかったし、子供の行為を制止するのに近道だったのでしょう。けれども、「おまわりさん」を引き合いに出してしまったことによって、子供には何がいけないことなのか、結果としてうまく伝わらなかったのではないかと思います。実際、注意を受けた子供は、「おまわりさん」の言葉に敏感に反応し、びっくりした様子で石を地面に戻していました。これでは、「おまわりさん」にみつからなければ、建物に傷をつけても大丈夫なのではないか、という誤解を与えてしまいかねません。

以前、私の娘がアリを踏みつけたときのこと。

私は、「こらっ、アリがかわいそうじゃないか!」といった具合で娘を叱りませんでした。代わりに、踏みつけられて、もがき苦しむアリのところに娘を呼んでこう言いました。

「ほら、みてごらん。今、○○ちゃんが踏みつけちゃったアリさん、苦しそうだね。○○ちゃんが踏みつけたからだよ、かわいそうだね」

娘は5秒も一緒に見ていられません。辛そうな表情で私に訴えました。

「パパ、もう言うの止めて」

それからというもの、娘はけっしてアリを殺さなくなりました。そして、同じように虫をいじめる弟には、「ほら、みてごらん。虫がかわいそうでしょう」と言って、弟を諭すようにもなりました。

人間は、善悪の判断ができる動物であると思います。そして、その善悪の判断基準は、教え込まれる以前に、人間が生まれながらにして、純粋な心のなかに持ち合わせているのではないかと、私は思うのです。

しかし、大人は善悪の判断結果を子供に教え込み勝ちとなります。

ぬいぐるみを乱暴に殴りまくる息子に対して、どう接するべきでしょうか。たとえ、ぬいぐるみとはいえ、やはりモノを乱暴に扱ってはいけないし、ましてやぬいぐるみのようなものを殴る、蹴るというのは、けっしていいことではありません。

しかし、だからといって「こらっ、やめなさい!」と叱ったところで、子供にとっては何がいけないのかよく分からないのです。たとえそれで殴ることを止めたとしても、それはひとまず、親が怒っていて、怖いから止めるだけです。それでは、親がいないところで、同じことを繰り返してしまいます。

子供は表現力が未熟であり、社会的に弱者でもあるため、子供の言うことを無視しようと思えばいくらでも無視できるし、無視したらかといって、当面大きな不都合が起こるということはほとんどないでしょう。だから、大人は子供の表現力の未熟さや、社会的地位の弱さにつけこんで、頭ごなしに言うことを聞かせようとするのです。そして実際に、子供はそれで言うことを聞くものです。いくら言うことを聞かない子供でも、(どこまでやるかの問題はあるが)究極的に力でやり込めれば、結果的に子供は言うことを聞かざるを得ません。この力関係を利用すれば、子供にはいくらでも言うことを聞かすことができるし、このことは大人にとって非常に楽だし、都合がいいでしょう。しかし、それはその場限りであることを忘れてはなりません。

そこで、「痛い、痛い。ぬいぐるみがかわいそう・・・」と言ってみます。

子供は素直だし、想像力があります。表現力が未熟な子供でも、ひとつの人格を立派にもっており、その感受性や想像力は実に見事です。その言葉を聞いて、子供は「あれ、そうかな?かわいそうなのかな」と思うのです。なかには、照れくさがって、その場ですぐに殴ることをやめない子供もいるでしょうが、心の中では「かわいそうかもしれない、悪いことかもしれないな」という思いを抱くようになるのです。すると、いずれ子供はぬいぐるみを殴らなくなります。

ある事柄について、善か悪かを教えることは簡単なことであり、その結果だけを大人と子供の力関係を利用して教え込むことは、本当の教育ではありません。そのように善悪を押し付けられた子供は、本当にそれが良いことなのか、あるいは悪いことなのか、いつまでも心をもって感じ、判断することができないままになってしまいます。

本当に子供のことを思って、叱るのであれば、子供自身に善悪の判断をさせ、それを言動につなげられるように、心に響くような叱り方をしていくべきではないかと思うのです。

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