本当に欲しいと思っているものがあるなら、それに執着してはなりません。本当に手にしたいと思うならば、それを捨てる覚悟でいるといいでしょう。そうすると結果的に、それを手に入れることができるのです。
地位が欲しいと思うならば、地位を捨てよ。
金が欲しいと思うなら、金を捨てよ。
愛が欲しいと思うなら、愛を捨てよ。
命が欲しいと思うなら、命を捨てよ。
本当に捨てる覚悟があるものに対しては、必ずそれを拾ってくれる人が出てきます。そして、結果的に大きなそれを手にすることができるようになります。しかし、少しでもそれに執着したり、もったいぶったりすると、その人物にそれがあることについて、周りの人々が疑念を持つようになり、最終的に失っていく結果となります。
例えば、リーダーの地位に固執する人は、自ずとその心が態度として出てしまい、リーダーを支えるべき人たちの不信感を買います。結果として、その人はリーダーの地位に就き続けることはできなくなるでしょう。真のリーダーは、人間の本質的な部分で、リーダーたる資質を磨き、備えている人物であり、そのリーダーの地位は、自ずと周囲の人々から与えられるのです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。
人間の本質とは器であり、生き方の軸にあります。それは、その人物が何を信じ、何のために生きようとしているかで決まります。そして、その人物の器が大きく、中心軸が真っ直ぐ通っていれば地位も、金も、名誉も、命もそれに見合った分だけ、自ずと与えられるものであると考えるべきです。
その人間が地位をもっているか、金を手にしているか、愛に恵まれているか、命を永らえていられるかは、可視化できない人間の本質の部分が、結果として表面化されているだけであり、それそのものの裏側にあって、それを支えているものを見失ってはなりません。
だから、本当に必要なものに対しては、けっして固執してはならないと思うのです。むしろ人間の本質的な部分を磨いていくことが、本当に必要なものを手にする結果を生むでしょう。
ただし、実はこれと同時に全く逆のことを言うことができます。
つまり、「究極的に固執せよ」ということです。この意味は、究極的に固執するからこそ、捨てても最終的にそれを拾うことができるということです。このことは、手に入れられるという結果を期待しながら、捨てろということとも違います。期待をすることそのものが、それを欲することであり、その見返りを求める気持ちが、心に隙を生じさせ、迷いとなり、捨て去ることを不可能にするからです。見返りを期待するわけではない、かといって自暴自棄となり、粗末に捨て去るでもない、という意味です。
「固執せずに捨てきれ」
「究極的に固執せよ」
このふたつは明らかに矛盾します。しかし、この相矛盾するふたつの概念を理解し、両方を同時に実践できたとき、本当に大切なものを手に入れることができるのです。
人間社会は、矛盾に満ちています。けれども、いつまでもその矛盾を解けないといって諦めていては人類に明日はありません。矛盾の解き方は、どちらか一方を認め、一方を否定することではありません。両方を同時に認めること、それが矛盾を解くカギであると思います。
人間には両手があります。最強の矛と最強の盾。これをぶつけ合い、どちらが最強かを明らかにする必要はないのです。それぞれが最強であることを認め、最強の矛と最強の盾を両手にもつことで、最強の人になれるのです。それだけでいいのです。
イエス・キリストは、愛に固執せずにそれを捨て去りました。しかし、それだけでした。同時に「究極的に固執する」ことができず、結果として、自ら死んでいくという失敗を犯してしまったと思います。そして、人類はイエスが説こうとしていた本当の愛を理解することができずに今日を迎えてしまい、人類と地球の未来に暗雲を呼び寄せてしまっていると考えるのです。しかし、新しい時代を迎え、二度とイエスの失敗を繰り返してはなりません(「イエスから学ぶこと」参照)。
矛盾は必ず解決できます。表と裏、陰と陽、男と女・・・、相反するふたつの概念。
そう。人間には、男と女がいます。イエスはひとりの男として、業を成し遂げようとしました。そこに過ちがあったのではないかと思うのです。
「固執せずに捨てきれ」
「究極的に固執せよ」
この相矛盾する考え方について、男は男の役割を、女は女の役割をきちんと果たすことで、その両方が共存できるようになるでしょう。それこそが、矛盾の解決なのです。大切なのは、中途半端にならないことです。「固執せずに捨てきる」か、「究極的に固執する」か、どちらかを突き詰めていく。それが一人の人間にできることだと思います。