常識について思うこと

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「右翼」との向き合い方

2009年09月28日 | 日本

ここ最近、日本建国史について、あらためて見直しています。いずれにせよ、大枠に関しては、既に本ブログでも記事化している通りです(「日本建国史の再考」参照)。

ところで、私がこのように日本の建国史に関して調べているのは、単に「趣味だから」という理由ではありません。私が、人生において、必要なことを推し進めるにあたっては、どうしても必要な作業なのです。

国や世界の根幹に関わるような仕事をしようとなると、実にいろいろな方々と接することになります。その中には、いわゆる「右翼」と呼ばれるような方々も含まれます。一般的に「右翼」と言うと、街宣車を乗り回して、大音量で自分たちの主義主張を述べ立てる人々をイメージするかもしれません。もちろん、それはそれで間違いではないと思いますが、もっと大きな力を発揮するような「右翼」の方々のあり様は、もう少し違っていると考えた方がいいでしょう。こうした方々は、近現代の日本における国家運営に関して、非常に大きな影響力を有し続けてきた方々であり、おいそれと表舞台に出てくるような簡単な存在ではありません。私なりに、「右翼」は日本という国家の成り立ちについて、深く関わってきた方々であり、だからこそ日本という国に対しての思い、あるいはその頂点とされた天皇に対しての思いが、他の人々とは比べ物にならないくらい特別なのだろうと理解しています。

現代の天皇制について、あるいはその存在について異議を唱える人々がいます。例えば、近代日本の歴史からいえば、明治維新を成し遂げる過程で、大きな過ちがあったと指摘する人々がいることは事実です。それを(過激な表現ながら)端的に言ってしまうと、明治天皇は逆族の一味であり、その末裔たる人々を天皇として崇め奉るのはおかしいのではないかということです(「責める前に学ぶこと」参照)。こうした類のテーマについて、「右翼」の方々との議論になると、大変な不快感を示しつつ、「足利尊氏こそが逆族である」等という展開になったりします。足利氏については、たしかに三代将軍義光あたりで、ずいぶんと問題があったらしいことは、いろいろなところで言われていますが、「右翼」の方々の主張には、それだけではない事情が隠されているようです。

ただ私としては、この問題について「誰が逆賊か」というようなかたちで、あまり明確なスタンスを取ったり、結論を出したりするつもりはありません。仮に、明治天皇が逆族の一味なら逆族の一味で構わないし、それはそれとして承知の上で、認めていけばいいだけのことでしょう。当時の欧米列強が押し寄せてくるような情勢にあっては、明治政府樹立のために、相応の無理が生じたとしても仕方がないと思いますし、それは、それを為した方々のギリギリの選択であっただろうと推察します。ただし、それと同時に、少なくとも「足利尊氏が逆族である」からこそ、それを正した明治天皇以降こそが正統であるという論法に賛同するつもりもありません。もう少し踏み込んでいえば、次の時代に向けて、新しい日本を作り上げていくためには、そうした思想や歴史観に囚われないことが肝要だと思うのです。つまり、「天皇制」や「天皇の存在意義」といったテーマについては、「右翼」の方々とも、きちんと向き合いつつ、建設的な議論ができるように準備をしておく必要があるということです。

こうした問題意識に立つと、日本建国史を見つめ直す意味が高まります。つまり、「右翼」の方々が南北朝時代まで遡って、自らの正統性を語られるのであれば、問題の原因を、それよりもさらに遡ったポイントから見つめ直すことによって、それを包含するようなロジックを組み立てられることが可能になってくるということです。それは自分自身が、今日の「右翼」を越える程、「果てない極右」になるということでもあるでしょう。そうした意味で、日本建国史を紐解き、例えば「大国主大神と天照大神」、「神武と饒速日」、「蘇我と物部」の関係性を知るということは、「楠正成と足利尊氏」の関係性を知ること以上に、重要な意味や強大な力を持ち得ることになるのだと思います。

こうした姿勢は、「右翼」の方々と向き合いながら、次の時代を構築していく上で極めて重要であると考えます。「右翼」を制するのは、その逆に位置する「左翼」ではないと思います。それは、今の「右翼」よりももっと深く、大きく、重い「果てない極右」になることが、「右翼」と向き合いつつ、新しい時代を構築するためには必要なことだと考えるからです。

少々、脱線しますが、これは「左翼」についても言えることです。「左翼」を制するのは、「果てない極左」です。少々、奇異に思われるかも知れますが、「果てない極右」と「果てない極左」は交わるものであり、全くの別物ではありません。それはあたかも、地上が平面とされている時代においては、「東」と「西」が反対概念であったにも関わらず、地球が丸いことが分かってしまえば、「果てない東」と「果てない西」が交わるようなものです。

私は、次の時代において、恒久的な世界平和実現のための仕組みを作っていこうと考えています。それは見方によっては、「果てない極左」的な思想と解されるであろうと考えます(「四次元戦争の時代」参照)。一方で、それを実現するためには、私自身が日本人としての立場から、徹底的に日本という国の成り立ちを紐解き、その重要性と役割について、真剣に考えていかなければならないと思っています。それは、ある意味で「果てない極右」的な思想であるとも言えるでしょう。

このように、これら相反するかのような二つの思想が同居することについて、従来の概念の延長線上からでは、けっして理解できないものだろうと考えます。しかし、これらは間違いなく両立するものだと思います。「右翼」や「左翼」というものを、これまでのような平面的な概念ではなく、より立体的な概念から捉えられる時代は、きっと到来することでしょう。

それはさておき、いずれにせよ、これから先の時代において、「右翼」の方々とも、きちんとお話ができるように、「果てない極右(あるいは極左)」になるための準備を進めておくことは、とても重要なことだと思うのでした。

《おまけ》
私、竹内一斉の経歴についてインターネットで検索をすると、私が「サムスン出身の経歴を持つチョソ系」という書き込みがヒットするようです。ここで言われている「チョソ系」というのが、何を指しているのかよく分かりませんが、少なくとも、私は純然たる日本人です。そしてまた上記の通り、きっとその中でも「果てない極右」的な思想の持ち主でもあろうと思います。この書き込みをされた方とは(私からは見えない相手であり、私が永遠に気付かない存在であるとしても)、いずれどこかで、きちんとお話をしてみたいと思っています。私の職歴や経歴から、いろいろな憶測をされるのは勝手ですが、事実に反することを平然と言いのけられたり、また言いっ放しを許してしまったりするのは、けっして良いことではありません。また、蔑視思想とも取られかねない発言をされていることに対しては、同じ日本人として大変恥ずかしく思います。ただ、こうした行為がまかり通ってしまうというのは、今日のインターネットの構造上の限界でしょうから、その問題解消については、自分自身のテーマとして、きちんと人生をかけて取り組んでいきたいと思います(「責任を伴う「場」の提供」参照)。ちなみに、その書き込みの中には、私が「一般常識もなく口の利き方も知らない」といった指摘もあるようですが、これについては単純にそうかもしれませんので、素直に「なるほど!」と返したいところです(笑)。

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2 コメント

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関裕二さん (竹内一斉)
2009-09-29 11:34:56
ダイヤモンド王さん

コメント、ありがとうございます。「火の鳥」ですか?面白いですね。

私が、面白いと思うのは、関裕二さんの書籍でしょうか。関さんについては、ネットで調べると、いろいろな見方があるようですが、要は自分の頭で考えながら読むことが大切なのでしょう。下手に記紀に囚われた発想をする方々よりも(またあまりに突飛な議論を展開するような方々よりも)、関さんの指摘は、いろいろな謎をきちんと説明できるになるという意味で、核心を突いているように思います。
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火の鳥 (ダイヤモンド王)
2009-09-29 11:01:38
私はこの手の問題を考えたり、この手の本を読んだとき 必ず 火の鳥を全巻読み直します、その上で今まで、火の鳥を越える日本の歴史に対する見方を考えさせられる本がない、だれかお教えくだされ。
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