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漫画で読む「神武の東征」

2010年10月25日 | 日本

安彦良和さんの「ナムジ」と「神武」を読みました。日本の古代史を漫画の世界から読み解くというのは、なかなか楽しいものです。この漫画が描かれたのは、もう10年以上も前なので、その間の発見やらを盛り込めていないのでしょうから、そんなことをとやかく言う必要はないでしょう。ただ、いずれにせよ、謎が多いとされている古代史のストーリーを描写するという意味で、漫画というのは、とても効果的な手段ではないかと感じました。

そしてまた、神武の東征が、所謂、軍隊が制圧していくような性格のものではなく、畿内の大和政権に呼び出されて行った平和的な一行だったという点、私なりにはとても共感できるものがあります。こうした解釈のうえで、歴史を見つめ直すというのは、いろいろと発見のチャンスを得ることにもなるでしょう。

ところで、この作品において、私が思い描く古代史とは、若干ずれるところが、以下のポイントについてでした。

-邪馬台国の卑弥呼

作品中、邪馬台国の卑弥呼が、とても大きな存在として描かれていました。邪馬台国が九州にあったという点は、私も同意するところです。しかし、同国を過大評価しているのではないかというのが、私の率直な感想です。邪馬台国は、北九州をその支配下に治め、大陸からの情報やモノの流れを抑えていたという点で、畿内の大和政権にとっては、大いなる脅威であったと思います。しかし、それが大和政権の本流に食い込む程の力はなく、むしろ大和政権の中心的役割を担っていた出雲勢力に滅ぼされていたのではないかというのが私見です。

もし、邪馬台国の流れが畿内の大和政権の中枢に入り込んでいたのならば、魏志倭人伝のような中国側の書物だけでなく、日本側の書物にも、それと確信させる記録が残されて然るべきでしょう(女神説がある天照大神を卑弥呼と看做す考え方もありますが、私はこれを女帝・持統天皇の正統化と考えており、卑弥呼とする考え方には賛同しかねます)。それが見当たらないのは、邪馬台国が畿内の大和政権の中枢には入り込んでおらず、むしろ「中国に太いパイプを持つことができていた国」という位置付けで捉えるべきであり、それは上記を説明し得ると考えます。

そうした観点から、卑弥呼に代わって立った台与は、邪馬台国の人間ではなく、邪馬台国の乱に乗じて、中国大陸から干渉されることを恐れて作られた(出雲の)人物ではないかという気がします。つまり、邪馬台国はよく治まっているので中国の介入は要らない、という出雲からのメッセージだったということです。

-大物主大神や饒速日尊の正体

三輪山の大物主大神は、スサノオの息子であり、同時に饒速日尊であるということになっていますが、そこはよく分かりません。

大物主大神は、出雲の大国主大神の和魂(にきみたま)等と言われます。つまり、大国主大神と同一であると同時に、その片割れであるといったことのようです。安彦さんの作品では、この点を否定してしまっているようですが、私は、このことの意味がとても深いような気がしています。つまり、大物主大神は、大国主大神の分身として、三輪山に招かれたのではないかということです。

畿内にあった大和政権は、緩やかな連合国家であり、出雲以外にも有力な地域の勢力が、権力の中枢にいたのではないかと考えられます。そして、出雲(大国主大神)の一族は、大陸からの物流ルートを牛耳り、大和政権を脅かす邪馬台国征伐等の関係で九州に出たものの、そのまま畿内から追い出されてしまい、残った勢力が畿内・大和を治めるようになったのではないか、というのが私の仮説です。

しかし、畿内の大和政権の中には、出雲一族を追い出して、国の運営がままならず、これを「出雲の祟り」と畏れた人々もいたことでしょう。そうした畏れを払拭するために、出雲の大国主大神を勧請して、その分身を大物主大神として三輪山に祀ったという仮説はあり得るような気がするのです。

そして、こうした時勢のなか、出雲を除いた残った勢力を畿内・大和で取りまとめていたのが、饒速日尊だったのではないかというのが、私が思うところです。即ち、饒速日尊はスサノオの息子といった出雲系ではなく、むしろ出雲系の大王を追い出した人々の長だったということです。彼らは出雲系の人々の怨念を抑えるために大物主大神を三輪山に祀ってみたものの、結局、国家運営の行き詰まりは改善されず、九州に追い出された出雲系の神武を呼び戻さざるを得なかったというのが、神武の東征の実態だったのではないかということです。

-紀伊半島を廻った理由

安彦さんの作品にあるとおり、神武の東征が、紀伊半島を迂回して成ったというのは、なかなか面白いと思います。つまり、畿内に入ろうとするならば、本来、大阪湾あたりから上陸するのが自然ですが、そこからは上陸することができずに、ぐるりと廻って、紀伊半島の反対側から上陸しているというのです。ここには、神武一行に、それだけの執念を持って、畿内に入らなければならなかった理由があったはずであるという点、私もそうだろうと思います。ただし、その執念の理由が、女王・卑弥呼の意向だったからというのは、イマイチ腑に落ちません。それは、私自身が卑弥呼の存在をそれほど高く評価していないからという理由があるかもしれません。

ただ私としては、それ以上に、神武が畿内の大和に入るというのは、かつて政権の中枢にいた出雲勢力の復活を意味しており、それだけ一族にとって、重い意味があったからではないかと考えるのです。それは例えば、越から継体天皇が呼び出されて即位したようなものを連想させます。つまり、神武の東征は、一旦王家から離れた者が、呼び戻されるという復活劇であり、神武一行としても、これは何としても果たしたかった夢だったのでしょう。

一方で、神武の復権を快く思わなかった者たちもいたと思われます。それは、安彦さんの作品にも描かれているような長髄彦や安日彦といった人々です。私は、こうした人々がいたからこそ、神武が畿内・大和から呼び出されたにもかかわらず、簡単に同地に入ることができなかったのだろうと考えます。

ちなみに、長髄彦や安日彦の一族は、神武の東征後、東北に落延びていくことになったとされています。このあたりは諸説ありますが、彼らの後裔が安東氏や秋田氏だという話は、それなりに信じるに値する話ではないかと思っています。それは例えば、後の朝廷が、征夷大将軍という地位を作って、歴史的に「東夷」を意識したスタンスをとっていたり、明治維新後、政府が華族を定める際に、三春藩主・秋田映季から提出された秋田氏の系図で、長髄彦の兄・安日彦(天皇の逆賊)を遠祖とするといったこと等にも表れていると思います。

いずれにしても、たかが漫画ではありますが、こんな感じで、いろいろな思考をしながら読ませていただいたという意味で、とても楽しめました。同時に、そうした楽しく読める漫画作品として、謎が多いとされる古代史を扱うものが、もっともっと出てきてくれたら面白いのではないかと思うのでした。

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2 コメント

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Unknown (安東俊幸)
2011-02-16 06:20:36
勉強になりました。安東俊幸
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天皇家との関係 (竹内一斉)
2011-02-16 15:41:53
安東俊幸さん、コメントありがとうございます。
安東氏については、天皇家との関係がなかなか面白いと思っています。
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