満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

MY MORNING JACKET  『EVIL URGES』

2008-07-12 | 新規投稿

今時、珍しい位の‘骨太な演奏’をするのがマイモーニングジャケット。『at dawn』(05)を聴いて一発で好きになったこのバンド。まるでバッドカンパニーのようなシンプルで腰の強い音楽性に感動した。しかもR&Bやブルース、カントリー等、ルーツミュージック全般を体内に充満させている事が曲調に顕れる。ただ、一筋縄ではいかないのが、その引き出しの多さ。このバンド、実は多様な顔を併せ持つ。ジャーマンサイケのようなイマイチなアルバムも過去、あった。やりたい事が多いのか。その多趣味なハイブリッド感覚はある意味、アーカイブ時代に生きる現在性の不可抗力か。しかし、このバンドの本質はルーツロックだ。しかもそれを見せかけでなく、全く本物の表現ができる希有なバンドだと感じている。歌心があるのだ。ギターのフレーズやドラムのフィル、曲を終わるときの締め方等に、言いようのないオールドウェーブ臭があり、根っからのミュージシャン気質を嫌が追うにも感じさせてくれる。死語であろう‘ロッカー’という称号を与えたくなるバンドだ。

スタイルの革新を止めたロックの退潮は90年代以降のラウドロックが実は象徴していた。か細い演奏でさえ音量を拡大する事で、それは‘ラウド’となるが、演奏の芯の無さは隠しきれない。過剰エフェクトによる生音の変容はドラム、ギター、ベースはおろかボーカルにまで及び、ドンカマ至上主義はロックのタイム感覚を無機的にした。ロックの人間主義が淘汰され、肥大化した轟音はオーディエンスの眼前に分厚い壁を作る。そのラウドな壁のマッシブな刺激がもたらす非―肉体性を一つの快楽パターンとしたのが、90年代以降のロックの姿なのだ。多くは耳にうるさいだけの爆音主義。それはロックの自死、自爆の祝祭だったのだろう。唯一、ニルヴァーナはロックの身体性を最後に体現し、散ったバンドであったか。指が弦を押すその感触性。ピックが弦を擦れる微妙なタッチ、スティックを握る手が皮を打つ生の振動性。腹から発声される肉声。嘗て70年代のロックバンドはそれらを当たり前のように保持していた。そういった‘演奏性’こそがロックの生命力そのものだと信じられていた。
オールマンブラザーズ、ベック・ボガード&アピス、グランドファンク、フリー、ゼップ等に見られる‘骨太な演奏’はもはや70年代の遺物であり、それは肉体性の衰退という現在の音楽環境における必然的な後退現象から顧みる事ができるロックミュージックのピーク時の記録となるだろう。現在のような膨大なエフェクトセット、サウンドシステムをアンプの傍らに置いたバンドでも全く及ぶ事のできない‘大きな音’が、嘗てのアナログなロックバンドには在る。シンプルな楽曲を太い演奏で表現する潔さは無くなった。これからのロックが正統主義を採るなら、それら肉体性を体現したロックに倣う事なくしてその道は歩めない筈だ。

マイモーニングジャケットの新作『EVIL URGES』はポップ路線へシフトしたような第一印象だが、やはり歌心と太い演奏は健在。風呂場で歌っているようなリバーブも消えた。良い意味でのメジャー指向に向かっているようだ。でもザ・バンドのトリビュート『endless highway』でやってくれた「it makes no difference(同じ事さ!)」の素晴らしいカバーを聴かされれば、グループの本質はルーツロックのフィット感にある事は再確認できる。今後はルーツロックを基底に置いて、その広角な音楽性を開花させる予感。

2008.7.11
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nasuno mitsuru 『prequel oct.1998-mar.1999+1』

2008-07-01 | 新規投稿

京都での大学時代、米澤という遊び友達がいた。彼は軽音に所属していたが、何故か音楽的交流はなく、夜遊びばかりしていた。一度、彼の参加していたシュワルツワルツという名のバンド(多分、記憶違いでなければ)を観たがエレクトロファンクにニューロマンティック風味を加えたような音楽性だった。ベーシストが上手かったので、後で米澤に訊くと「ナッスンはテクニシャンやねん」とか言った。

私にとって90年代はアルタードステイツというバンド抜きには語れない。フリクションが不在であったこの時期、それに代わる‘追っかけ’バンドであり、難波ベアーズ、神戸ビッグアップルにいつも観に行っていた。最も注目していたのがナスノミツル。いつか観たバンドのベーシストであった。いっぺんにファンになった。引き出しにしまったテクニックを独特のセンスを通過させ瞬間的に出す、そのスタイルはカッコいい。淡々とした表情のラインからグルーブへの突入する時のインパクト。親指の爪でピックのようにビキビキと弾いたり、2フィンガーでは弦がしなうような力感があり、ビヨンビヨンと唸りをあげていた。即興の奔放さとシリアスさ。ユーモアと神経質な内面のイメージが相互に顕れる。その独自の個性は内橋氏(ギター)、芳垣氏(ドラム)という超個性的テクニシャンの間に入って、揺るぎない正三角形を形成していた。テクニカルなベーシストでセンスがなく嫌味な演奏をするのは多いが、ナスノミツルにはこれ以上ない演奏の‘美しさ’を感じ、それを私は彼の内面性故の表現の帰結と想起していた。

芳垣氏が東京に拠点を移し、その後、ナスノ氏も京都を去った事は知っていた。アルタードステイツの活動はスロー化したが、その後の三人の広い活動は音楽シーンに重要な影響を与えている。その事は愚かにもジャーナリズム等では検証されてはいないが、多くのミュージシャンが認めているだろう。

『prequel oct.1998-mar.1999+1』は98年から99年にかけてナスノミツルが録り溜めた作品群。私は聴く前、ドラムを交えたハイパワーなグルーブミュージックを期待したが、全く違った。鬼怒無月、大友良英、芳垣安洋、サムベネット等とのデュオ曲で構成されたそれぞれの楽曲は、実験的なアプローチや即興的フラグメントの集合といった内容。‘グルーブマスター’と異名をとるベースプレイは最小限にとどめられ、むしろ自身によるサウンドプログラミングに力点が置かれている。何より特徴的なのは、全編に展開されるナスノミツルによるボイスだ。全てのトラックで彼は低くつぶやき、ホワイトノイズをかけた異様な声で唸り、語っている。これは意外でちょっと参った。「こんな内容だったのかー」と肩すかし気味であった。しかし聴くにつれ、当初、やや過剰とも感じたこのボイスパフォーマンスにナスノミツルの神髄が顕れていると思い直すに至る。

強烈なモノローグがそこにあった。
エフェクトされたボイス。
ギミックでも曲中のスパイスでもない。むしろこのボイスにナスノミツルのテーマ(主題)があり、それは音楽の真ん中に屹立する。彼はつぶやき、内面に語りかけていた。その開放的ではなく、裡に沈み込むような内向性に私はナスノミツルの本質を垣間見たような気がする。

<1999・・・(略)この頃、私は京都から東京に拠点を移してしばらくたっていましたが、京都時代からの・・・重苦しい鉛の黒雲を、いつも背負っているような、絶望的な・・感覚はなかなか消え去らず、さらに新しい場所での自分の音楽のやり方、あり方にも釈然としないものを感じつつ、生活の為にいわゆる‘弾き’の仕事を片っ端からこなしていくという、精神と肉体のバランスがとても不安定な‘世間と3メートル遊離したままの平行移動・・・’、そんな時期を過ごしていました。このアルバムはそんな中、スケッチ的に録音していた作品群をまとめたものです。(以下略)>

私はアルバムカバーに記されたナスノミツルのメッセージを読み納得する。
そして一つの事を直感した。
彼は80年代前半の‘ニューウェーブ’の洗礼を間違いなく受けている。と。
京都の80年代シーンという音楽的動向(EP-4佐藤薫やdee bee’s、クラブモダーン、ザ・シーン、ノンカテ、ローザ、ミーム、イディオット、西部講堂etc・・)以上に彼は英米のオルターネイティブミュージックが当時の音楽ファンや表現者にもたらせたダークな精神、その‘暗い’ムードに身を置いていたのではないか。それを少なからず引きずっている。ナスノミツルの言う‘絶望的な・・感覚’が何に根差しているのかは解らない。しかし80年代前半の京都という空間、そこにあったオルターネイティブの土壌に何らかの関わりがあるのではという推測は同時代、同じくそこにいた私にとって、幾分にも共通の空気を感知するに足りる内容をアルバム『prequel oct.1998-mar.1999+1』は有していた。勝手な想像ではあるが。

弦がしなうほどの2フィンガーによる、あの弾きの強引さの中にある‘繊細さ’を私は以前から何となく感じてはいた。アルタードステイツの即興は常に内橋氏が先導し、芳垣氏が応えるという一つの型を持っていたが、二人が何かを確認したり、見合ったりする時、バンドの次の場面がナスノミツルの出方次第で決定される事が多く、内橋、芳垣両氏もその自発性から導かれる世界をナスノミツルに委ねていたように感じる。彼の安定と不安定に揺れる感情がバンドのどんな場面転換の中においても‘繊細さ’の発露を見せていた。爆発性や沈滞的音響などが、いずれも一つの‘調和’となってアルタードステイツを形取り、ナスノミツルの内向性こそが、バンドの結節点に在ると感じていた。

ナスノミツルのソロアルバム『prequel oct.1998-mar.1999+1』。
そこに私は濃厚な‘ニューウェーブ’の感性を見た。
音の物質性を錬金術的に紡ぎ出す内橋氏の即物的な音楽感性やアフリカやラテン等のエスノグルーブにも通じたリズムの達人たる芳垣氏とも異質な感性。‘ニューウェーブ’とは概念的であり、やや観念的なのだ。その意味で音楽至上主義からいつでも遊離し、非―技巧性という感性をどこかに所有しているのも特徴である。(‘引き出しにしまったテクニックを・・・’と先述したのもそんな感性を垣間見ての印象であると言える)

アルバムカバーに記されたナスノミツルのメッセージにはこうも記されていた。
<‘ノイズと黒人音楽的リズムとの対峙の果てのアシッド解釈’が自分なりのテーマとなっていました。(以下略)>
彼の演奏に顕著なドライブ感覚は黒人音楽のそれであろう。そして‘ノイズ’とはここで競演した大友氏の出自である日本フリージャズや即興音楽、或いは鬼怒氏の背景にあるプログレとも違う。それはニューウェーブ系列のインダストリアルノイズだと私は感じる。その非―グルーブ性音楽を‘黒人音楽’に対置することによって試行錯誤的融合を試みる彼の苦悩的感性と快楽がナスノミュージックの方向性にあるのではないだろうか。

フリージャズの要素や即興演奏の延長にあるノイズよりも、もっと言葉や物語、憂いを秘めたノイズが、ナスノミツルのボイスによって図らずも顕れた。しかも含蓄があり、楽曲に重さがある。完成度が高い楽曲故、アヴァンギャルドな音楽の割りには反復リスニングに堪えうるのも、ナスノミツルの内側からの真摯な表現が聴く者の心に何かを残す要素が満ちているからだ。ベーシストというより、一人のアーティストの意志の高さとして、私はこの作品に感服する。

‘グルーブマスター’という異名は彼の内面の運動がリズムの律動となって表面化した奥深いものに由来するのだろう。それは決して指先から発せられたものではない。だからリズムにウネリと振幅、安定感と不安定感が交互に去来するような感覚が生まれ、極めて内面的な‘歌’が常にきこえる。
またライブ行きたくなってきた。

2008.6.20






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