満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

『ウェブ人間論』 梅田望夫 平野啓一郎 PART 2

2007-07-03 | 新規投稿
  

<PART 1の続き>

平野啓一郎「(略)彼らがネット世界である種の癒しを得て、満たされることがあればあるほど、リアル社会に対する彼らのパワーは収斂されることなく霧散していくんじゃないかという気がするんです。(略)ネットにはリアル社会や「エスタブリッシュメント」をシニカルに笑い合っているような雰囲気が一部にある。(略)だけど、その笑いは結局、リアル社会や「エスタブリッシュメント」を全く動揺させないし、むしろサブシステムとしてその安定に手を貸していると思うんです。図らずも。」

全ての反体制運動や表現が体制を補完するものでしかないという状況を目の当たりにした
間章は嘗て‘ジャズを契機とする闘争集団’<日本リアルジャズ集団>を組織した。今も昔もジャズやロック、ポップは西側では安全パイだ。体制が唯一、敵視したのはアメリカでは実はレノン&ヨーコなのだ。ニクソンは本気でレノンを危険分子とした。
東西冷戦時代にインターネットがあれば、社会主義陣営の崩壊はもっと早かっただろうか。ソ連監視下でのチェコのハベル(後の大統領)は獄中のロックバンド、プラスティックピ-プルオブユニバースの支援活動を出発点に民主化運動を展開した。共産党一党独裁からチェコを解放し、東欧革命の口火を切った。あまり語られないがこれはロックが現実的な力になり得た希有な実例。

  梅田望夫「今の日本の権力の状況や個人の自由の問題が、一般的に言ってそれほどとんでもない事にはなっていないからだ、と見る事もできませんか。もっともっとそういう事に大きな問題のある環境下では、ネットの力を利用した対抗の可能性や、リアル社会を動かし得るパワーが現れる余地は今でも十分にあると思います。」

アメリカに亡命した天安門民主化運動のリーダーは「あの時、ネットがあれば」と回想している。ネットが武器になるとしたら、それは抑圧的な政治体制を採る一部の国の国民だろう。国民のネットやメールを監視してそれを削除したり書き換える為の職員を何万人と擁す国家がある。ご苦労な事だ。グーグルさえも軍門に下らせたこの国家。間違いなくネットによる民主革命とリアルな暴動がリンクした形が表れてくるだろう。しかし自由や言論が抑圧された場所で強い表現形態が生まれるのもまた、事実。その方が言葉も深化する。北京ロッカー、崔健の歌詞も暗喩に富むものだった。深い芸術性には強力な抑圧が必要?

平野啓一郎「モノにたいするフェティシズムって、本よりもレコードの方がはるかに強かったんだと思うんです。レコードはジャケットに対する力の入れようが本と全然、違っていて例えばピンクフロイドの『狂気』というと、ヒプノシスがデザインしたプリズムのジャケットが思い浮かびますけど、三島由紀夫の『仮面の告白』の単行本の装幀なんて、誰も思い浮かばないと思うんです。その魔力はCDにダウンサイズされて一旦、削がれたあと、今度はネットで音楽をダウンロードする時代が訪れて。今やジャケットもアイコン程度の意味しかなくなりつつある。」  

音楽は売る為にジャケットが重要だからこそ大いに発展し、芸術性も加わった。「レコードを買って所有しなければ音楽を体験した事にならない。」と昔、言っていた阿木譲の<極論>が今こそ、叫ばれるかな。いや、誰も相手にしないか。もう今は音楽を聴き込むのではなく、自分に合うかチェックして流す時代。大きなジャケットのインパクトはその音楽の味わいを深化させる切り離せないものだった。先日、店でジョンコルトレーン『至上の愛』の<でかジャケCD>というのを見たが、解るよ、それを作る気持ち。LPジャケットにCDを入れる。いいじゃないか。コルトレーンの鋭い横顔を大きな絵で見るべきだ。世界遺産クラスの音楽なんだから。他のつまらないCDと一緒に並べる方がおかしいんだから。ダウンロードした音楽から何が聞こえてくるのか。それは音楽じゃなく情報だろうな。私はしない。

  平野啓一郎「僕はネットで何時間も費やした後って、本を何時間も読んだ後みたいな充実感はイマイチないですけど、(略)ただ、時間はあっという間に経っていきますね。ネットは何故飽きないかというと、自分で情報を取捨選択してるからなんでしょう。本は面白くない箇所もありますから、途中でイヤになることもあるけれど、実はそここそが、肝だったりする。ネットはどうしても、面白いところだけをパパっと見ていく感じでしょう?確かに刺激はありますけど、なんとなく血肉になりきれない感じというか、(略)」

我慢の後にこそ深い快楽はある。その手続きを踏まなければならない。面白くない箇所をトバしてはならない。昔、ジェネシスを聴き込んだ事が今、ショスタコーヴィチを堪能できる肥やしになっていると感じる。あれは手続きの多いものを味わう為の訓練だった。何でも早くイケば良いってものじゃない。起承転結を全部、通過して初めて絶頂が得られるものがある。I-podが犯罪なのは、曲順をシャッフルしたりトバしたり、ごちゃまぜにして聴く習慣を増やした事だ。そんな流れがあるから昨今のロックやポップのアルバムは良い曲は最初の2.3曲までで残りはダメというパターンが多い。昔はLPのB面ラストに良い曲を持ってきていた。順番に全部、ちゃんと聴けという事だ。ディランの『blond on blond』だって最後の「sad eyed lady of the lowlands」だけ切り取って聴いても何もならない。最初から通して聴いて初めてあの曲の大感動が待っているのだ。


梅田望夫「今の十代、二十代の人達に「教養とはこうあるべし」なんて言っても届かないでしょう。例えば、彼らの情報処理の仕方って、「流しそうめん」みたいなんですよ。(略)情報への感覚は、そうめんはずっと流れてるんだから、ちょっと食べたいなと思った時に取ればいい。それ以外は流れていくままに放置して、どんどん捨てていくという感じです。(略)ありとあらゆる情報がネットには流れているんだから、必要に応じてグーグル行くとかユーチューブ行けばいいという事で、自分のところへわざわざ持たない、私有しない。」
平野啓一郎「ただ、実際のところ何か物を考えようと思ったら、まずその元となるような知識、要するに記憶があって、それに従って考えるしかないわけですよね。そうした時に改めてそれを理解するような映像なり情報なりがいつ消えるか分からない不安定な状態よりも、手元にあった方がいいと僕なんかは思うんですけど。」

「私有しない」というフレーズを聞いて歪んだ条件反射をするのは(旧)共産主義者だろうか。しかし所有、備蓄とは物を能動的に生み出す為にあると考える。司馬遼太郎記念館に行った時、その膨大な資料に驚いた。人を病みつきにさせる司馬文学は作家の資料の収集と精読、その組織化によって生まれていたのだ。それは量ではなく質がどれだけ生かされるかという事だろう。消費する濃度があってこそ、何かが生み出される。瞬間的消費とは体験の蓄積を内部に刻んではいかない。一本のそうめんを味がなくなるまで味わい尽くさなければならない。カナディアンでありながらアメリカ音楽の絶対基準を創造したザ・バンドにはアメリカ音楽の古典を咀嚼し内的に備蓄する質実さがあったのだろう。深く愛す濃度が半端じゃない事が外来人による土着文化再生に至った。


平野啓一郎「身体性から切り離されたところで、あらゆる人間が活発に活動するようになったというのが、ウェブ登場による一番の変化なんだと思います。(略)「分身」をウェブの世界に放り込むような感じですね。そこからさらにそうしたアイデンティティからも切り離された「書き言葉」そのものが、匿名化されてダイナミックに流動化し始めたのがウェブ2.0以降なんでしょう。(略)多くの人が自分で自分を言語化してゆくようになった。その中で自分が今までよりもよく分かったり、逆に自分を錯覚してしまったり、固定化してしまったりする。」
梅田望夫「そうですね。アイデンティティが固定化されると、同じ事を考えている人との共振があって、趣味や専門の「島宇宙」化していってそのコミュニティの充足を目指していく。(略)ネットというのはみんなが島宇宙に充足する方向を加速する道具であると思います。そうなると、どうなるんだろう。世の中全体は。」
平野啓一郎「人がただ、自分のことしか考えなくなってしまう、自分にとって心地よいことにしか関わり合わなくなるという危惧はやっぱりありますけど。(略)結局、政治的な問題だと思いますけど。(略)」
梅田望夫「政治家になろうと思う人が一人もでなくなる」
平野啓一郎「そうですね。政治家にならないまでも、選挙にも行かないとか。」

自分の中に内宇宙ができたらまず、身の回りの事、全てが面倒になってくる。風呂が面倒くさいという私は白日夢十代の病が未だに完治していない証拠でもある。心地よい空間を邪魔されたくない。そうなると関心外の事に意義を見出すことが困難になる。音楽の魔力は私にとってすさまじいものだった。だから音楽仲間は友人じゃなく、同志だった。この島宇宙から脱出するのは容易ではない。政治や社会の話は好きでも選挙なんて30代まで行った事がなかった。面倒なのだ。
あの奇天烈、フランク(エロ)ザッパが「選挙に行け」と説教くさい事言っていたのは面白い。ライブ会場にも投票箱を置いた。ザッパのハイブリッド精神は物事に優劣をつけない理想的合一を示唆している。全ての音楽を聴き込み、アート全般、思想領域にも精通した超人ザッパが、決してスノビズムに陥らなかった要因が彼の機会均等的な物事への対処法だったのではないか。音楽への敬意すらいつでも足下まで引きずるおろせる眼差しと覚悟。高踏的スタンスを回避し、地に足をつけた生活感覚の重要性とアートがまさしく等価だったのだろう。中途半端なスノッブが彼によって総否定される。恐るべきその精神レベルはザッパの雑派たる(幅広すぎる)音楽性にこそ表れる。政治を論じてもそれだけじゃダメ。選挙は必ず行け。はい、分かりました。

梅田望夫「テクノロジーが人間に変容を迫ってるという事は、もはや逃れようがなく、個がネットの力を使って、ある種の島宇宙的充足の方向に向かうのは不可避だと思うんですよね。そうゆう前提で、社会改革の方法論が大きく変わっていく可能性に僕は期待したいです。既存の社会を前提に政治家になろうという人が減っても、ネット上の一つの島宇宙としての社会貢献活動が活発化するみたいなイメージかな。オープンソースという現象だって、その萌芽と見る事もできます。」

島宇宙としての社会貢献活動か。今ひとつイメージしにくいが。
まあ、あらゆる市民運動も同好の士の集まりから始まるものだし。草の根運動は支持する。嫌いなのはカリスマなオーガナイザーが運動を牛耳ったり、左翼活動家が紛れ込んで運動をイデオロギー色に染めてゆくよくあるパターン。ネットにはまると世間知らずになりそうだからそんな洗脳が怖いね。最悪はロックスターのよくやる慈善事業。すぐ他人を巻き込む。金がある奴は黙って寄付活動に徹すればいいのだ。こんな事やってるんだとPRするな。個人で秘密にやればいい。
ネットによる社会貢献活動が可能な基盤は精緻な情報にかかっているのではないか。新聞では認知できない客観的事実をどれがけ集約し、発信できるか。その情報に基づいた個別の思考や行動がわき水のように発生すればいい。TVやマスコミが第三の権力と言われるならその監視機構が必要だ。その役割をネットが担っていくのだろう。それは良いことだ。面白おかしいデマが乱舞するのはその副作用。見抜く目も必要な時代になるね。

  梅田望夫「ウェブ進化はまだ始まったばかりである。本当の大変化はこれから始まる。次の十年、二十年、今以上に激しいスピードでウェブ進化は続いていき、私たち一人ひとりに変容を迫っていく」

イヤだなあ。迫るなよ。
しかし、先日、ついにパソコンを買った私もウェブ進化の尾っぽにくっついて行っているんだろう。抵抗しながらも。自分のブログを見てビックリした。こんなにきれいな画面だったのか。ハマリそうだ。いや、大丈夫。何故かと言うとそろそろバンド復活させるから。そうなるとまず、読書が減る。そのしわ寄せはパソコンにいく。そうすれば今まで通りパソコン見るのは三日に一度になる。この予定でいこう。これしかないね。

2007.7.1




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