満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

レッドツェッペリン 『永遠の詩(狂熱のライブ)~最強盤』

2008-01-11 | 新規投稿
 
三ノ宮のビック映劇に向かって自転車をこぐ30年前の自分を思い出す。『狂熱のライブ』と題されたレッドツェッペリンの映画が封切られたのは77年。パンフレットは今も持っている。動くツェッペリン。その衝撃たるや。一般にはファンタジーシーンの挿入が不評だったと記憶するが、中三で坊主頭の私にとってそんな事は全く問題ではなかった。四人のカッコ良さ。神々しさ。演奏の凄まじさ。映像の美しさと巨大な音にただただ、慄然とするしかなかった。「熱狂」じゃなくて「狂熱」。よく分からなかったが正にそんな感じだった。

しかし中学・高校時代、私の悩みは深かった。何が?
セックスピストルズとツェッペリンを何故、同次元に聴いてはいけないのか。いや、誰も駄目とは言わない。ただそんな奴はいなかった事が私を孤立させていたのだ。アーカイブ時代である現在、今でこそロックファンの多くはジャンルを隔たりなく聴いている。何もかも一緒くたに無節操にジャンルを越境している。ポリシーがないのは今のやつらの特徴だが、広く聴くのは良いことだ。しかし当時はそうではなかった。パンクファンは絶対、オールドウェーブは聴かない。そしてその逆も同様であった。頑なにポリシーを貫いていた。ディスヒートが登場した時、‘キングクリムゾンとセックスピストルズの断絶を埋めるバンド’と評された。しかし私にとって両者は<断絶>などしていなかった。両方好きな私はおかしかったのか。ポリシーがない奴だったのか。

「そんなしょうもないのしか聴かへんの?」
トーキングヘッズやB-52sが好きな奴が教室でフロイドやジェネシスのLPを持っていた私にこう言った事を覚えている。私がヘッズも大好きだと応えると、そいつは‘あり得ない’という顔をした。
「ツェッペリン!?保守党支持のバンドじゃないですか!」
こう言い放ったのはクラッシュ命の年下の奴。おまえは英国民か。
かと思えば、ジェフベック、リッチーなど好きな奴は、私が貸したダムドを「なんでこんなヘタなん、聴くの?」と言う始末。あのなあ。

ロックが現在進行形の時代だったのだ。
そこには必然的な歴史があり、‘唯物史観’による進化がある。セクトが生まれ、主義、主張はぶつかり、闘争しながら発展してゆく。多くのロックファンはセクショナリズムに拘泥されていた。ある物語が信じられ、一つのバンドを好きになる事とは一つの個人主張であり、態度表明だった。そんな大げさな。いや本当だ。

ニューウェーブ勢はオールドウェーブを毛嫌いし、攻撃した。過去を否定する事を使命と考え、それがアイデンティティーの確立であったわけだ。しかし、様子が少しずつ変わり始めるのを私は見逃さなかった。ポジティブパンクと称されたサザンディスカルトがディスカルト、更にカルトと改名し、「ツェッペリンがずっと好きだった」と表明した頃から、シーンの空気が変わる。「いや、実は俺も・・・」というアーティストが多く現れたのである。あの時代、「ツェッペリンが好きだ」と公言するには勇気が必要だった。マンチェスタームーブメントの頃からオールドウェイブ再発見が始まったと思う。長髪も増えた。

90年代にロックはアーカイブの時代に入った。
ロックの創造が停止し、遺産配分による制作時代に移ったのだろう。ジャーナリズムも根拠を失い、やたらカタログ雑誌が増えたのはこの頃からだ。若いリスナーは今では77年に起こった断絶を実感できるはずもない。パンク以前と以降の風景の違いは絶対的だった。その相違を感じる事ができない幸運が、逆に偏見なしでその前後の音楽を分け隔てなく聴ける要因になっているのだ。良いことだ。今の‘カテゴライズ’とは表面的なもので、ある‘主張’ではない。従って観念の邪魔によって感性の領域が固定される事がない。無節操な聴き方と裏腹に、それは感覚の拡大を可能にするはずである。

ポリシーなきリスニング時代。それはロックがアーカイブの時代に入った証明でもあろう。全てが相対化され、平坦なものの上にある。懐古の対象となったロック達にそれぞれの位置付けが与えられ、他人事のように評価され、鑑賞される。よく言えば客観的という事。思い入れは削除され、今のものと過去のものが並列に享受される時代に入っているのだろう。

しかしだ。くどいが、
詰め襟学生服時代の私の悩みは深かった。本当に。ツェッペリンに感電していた私は、それをパンク、ニューウェーブという現在起こっている事態に結びつけようとしていた。お節介にも両者を仲介しようとしていた。どちらにも感電していた。節操がなかった。多分、私はある種の‘感激屋’だったのだろう。今でもそうだ。純粋なんだ。ああ。だから音楽だけは飽きた事がないのだ。めでたい奴だ。
私はツェッペリンとパンク、ニューウェーブとの関連性、連続性にこそ関心がある。あれから30年。今こそそれが探られていい時代になった。当時、少なくとも『狂熱のライブ』の映像に『ラストワルツ』に感じたような古さ、ダサさを私は感じなかった。長髪、ベルボトム。その違和感は音楽のエネルギーと四人のこれ以上ないという色気、オーラが打ち消していた。ツェッペリンだけは有無を言わせない存在だった。別格であっただろう。

拙著『満月に聴く音楽』で私はツェッペリンをキングクリムゾンと並列に論じた。エネルギーが質量共に同等であるという私見によるものである。ツェッペリン派とパープル派の論争も今は昔話。その無意味さは今日、歴史が実証済み。私はむしろツェッペリンのニューウェーブとの関連性、連続性にこそ関心がある。
あの深い断絶の背後にエネルギーの相互関係があったと思っている。初期衝動においてではない。その音楽構築の密度の影響においてである。

パンク、ニューウェーブを大雑把に分類すると以下になる。(マンチェ以前)
初期衝動短命型 ピストルズ、イーター、ホットロッズなど
英雄主義延命型 ジャム、クラッシュなど
大道芸的継続型 フォール、シャム69、ラモーンズ、ダムドなど
音楽解体深化型 PIL、ポップグループ、ディスヒート、ワイアーなど
幻影追求深刻型 バンシーズ、ジョイディビジョン、バウハウスなど
大衆娯楽進化型 キュアー、ウルトラボックス、バニーメン、U2など
原始律動舞踏型 Kジョーク、サーティンレシオ、RR&P、ON-U、など
叙情主義内面型 ドュルッティコラム、ヤングマーブルジャイアンツ、など
前衛電子実験型 TG、キャブス、Fリザーズ、クロックDVA、など
音楽構築完成型 ストラングラーズ、マガジン、XTC、ダムドなど

私は最終的に音楽構築完成型に分類されるバンドがニューウェーブの進化の形と見る。つまり過去否定のイデオロギーが支配した中で、むしろ先達の古典から連なる意識と音楽性そのものを追求するその完成度を志向するものである。初期衝動を基底に持ちながら、ノンミュージシャンがミュージシャンへ変貌する音楽群。ツェッペリンがニューウェーブとエネルギーの共通共有できるのは、ここにある。ストラングラーズのパンク、ニューウェーブシーンの中での誤解のされ方も、ツェッペリンが70‘sハードロックシーンの中で位置付けられた過ちと共通するものだ。
ツェッペリンとストラングラーズ。両者の祖、カテゴリーはどこにあるか。私はそれをブリティッシュポップミュージックという大枠であると考えている。従ってその祖先はビートルズにある。(ブルースの基盤とその溶解という意味でも)それに連なるものとしてのツェッペリンがあり、同時代的類型としてクイーン、クリムゾン、ロキシー、10CC,などがある。そして更にそれに連なるものとしてのストラングラーズ、マガジン、XTCがある。
ツェッペリンはパープルは勿論、他のヘビメタ、ハードロックバンドとも何の共通点もない。強いて言えばハードロック的陶酔が一つの要素としてツェッペリンの音楽性の中にあるというだけの事。その意味でジミヘンとは共通する。

レッドツェッペリンの万華鏡的音楽性、その音楽構築度はニューウェーブの音楽進化、完成型の在り方と共振する。私が坊主頭時代に感得したものはその‘作品性’としての共通項だった気がする。ツェッペリンの楽曲を改めて一つ一つ聴くがよい。その緻密な構成や行き届いたアレンジ、旋律美とブルースやトラッドを基盤にした奥深さ、それらを総じてのポピュラリティにこそ魅力があり、演奏の強度と楽曲の輝きが両立している事が分かる。
そんな娯楽作品性がある。そしてストラングラーズの『black&white』(77)、『aural sculpture(音響彫刻)』(85)という二大傑作、マガジンの歴史的名盤『secondhand daylight』(79)等の音楽的完成度はツェッペリンの建築的美学に共通するエネルギーであると理解する。

『永遠の詩(狂熱のライブ)~最強盤』は未収録の6曲を加えたリマスター盤。既存のナンバーも微妙にトラックが差し替えられており、あの擦り切れるほど聴いたLPも様々な編集が緻密にされていたのだなと今になって発覚する。マイルスデイビスと一緒だ。即興パートの多いライブでのツェッペリンは編集を施して最終的に完成する。作品第一主義をツェッペリンの面目躍如と見なすべきだろう。「ocean」でのジョンボーナムの雄叫びとクレバーな音楽建築が織りなす最高音楽。正に最強だ。


<追記>   LED ZEPPELIN  2007.12.10再結成コンサート音源(CDR)


ジョンボーナムは16でジェイソンボーナムは8なのだな。
この差が実は、めちゃめちゃ大きい。復活ツェッペリンはやはり、レッドツェッペリンたりえない。しかし。
確かにショーにしては凄い演奏だ。今のロックが慢性エネルギー不足なのを考えると、ここで繰り広げられる音楽のなんと独創的な事か。こんな音楽、今のどこにもない。異端性すら感じる。圧倒的だ。遂にやってくれたな、ジミーペイジは。過去、何度かあった中途半端な再結成やつまらないソロやデュオやらの無惨をここで晴らしている。多分、ジョンポールジョーンズがキーだったのだ。彼が従来のグルーブを取り戻し、ジェイソンのリズムタイムを理解した。ペイジ、プラントは安心して乗っかっている。何とかバンドの形になった。

しかし。
聴けば聴くほど、ジョンボーナムの偉大さを想起するのは致し方ない事か。親父のドラムを忠実になぞる息子。内的リズムに決定的相違がある。親父は手で8を鳴らしながら体は16を刻んでいたんだ。時には4すらも。対し息子は明確な8でしかない。ここにドライブ感覚に百万光年の差異が生まれる。一介のスタジオミュージシャンのジミーペイジがすごい楽曲を完成し、<音楽家>たり得たのは、ジョンボーナムがいたからという理由以外にない。ジョンボーナムの位置はバンドの指揮者だった。

ジェイソンボーナムが親父離れして、独自のグルーブを創出した時、レッドツェッペリンは奇跡の第二幕を自力で開けるのではないか。可能性はあると思う。私はここで演奏される「nobody’s fault but mine」の凄まじさに涙腺がゆるんだ。なんだこれは。すごいドラムのパワーだ。バスドラとベースのシンクロもすごい。力だけは親父譲りなんだな。やってくれ、ジェイソンボーナム。ジョンポールジョーンズと二人でスタジオで特訓するんだ。親父の幻影を振り払うオリジナルリズムを作ってくれ。

ペイジもプラントもツェッペリンの影を振り払う苦難の旅の無意味さに気づいた筈だ。ツェッペリンやるしかないのだよ。ハードロッカーでもないのにハードロックをやり、モロッコ好きだからといってワールドミュージックやる無惨な姿を晒す無自覚に終止符を打つ時がきた。ツェッペリン時代からマイペースで無頓着なジョンポールもアンビエントや映画音楽なんかもう、終わりにしよう。充分だ。世界一のベースを眠らせるんじゃないよ。三人とも、レッドツェッペリンやるしかないのだよ。それが宿命なのだ。次はセルフカバーじゃなくて、新曲だよ。絶対できる。ここでの演奏、こんな強烈なエネルギーを発しているのなら、その可能性を誰もが感じるはず。やってくれ。そして第2の『presence』を作って来日し、36年前の大阪での伝説の4時間ライブをもう一回、やってくれって・・・
これじゃあ、まるで「dazed and confused」だね。でもあり得るかも。

2008.1.10

 

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