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バンジャマン ペレ(Benjamin Peret) 「サン=ジェルマン大通り一二五番地で」(訳:鈴木雅雄)

2014-02-04 | 新規投稿
   
「アンドレ・ブルトン伝」(1997年 アンリ・ベアール著)が出版された時に感じた私の‘遅きに失した感’とは、果たして私だけの感慨であったか、それは分からない。ただ、シュルレアリスムに関する研究、出版物が量的に圧倒的な充実を見せていた70年代~80年代をスルーしながら、その主導者であるブルトンのまとまった評伝が存在しないという状態が実に90年代後半まで続いていたのは事実である。私がシュリレアリスムに熱中した80年代とは書店でのその関連書籍は充実し、新刊本、翻訳書も絶え間なく出版されていた時期でもあった。それが変わるのは90年代の初頭であろうか。シュルレアリスム関連書籍のフェイドアウトがポストモダニズム関連書籍のフェイドインと交差していた。私のシュルレアリスムに対する熱狂が冷めていくのはそんな書店での‘風景’の変化と軌を一にしていたと思う。

出版物が徐々に減少したシュルレアリスムは90年代を境に人々の関心から遠ざかり、それは思潮的に確実に後退した。それは時代の前衛足り得ず、ポストモダンという思想的風潮の全盛によって古い動向と見なされたという事実所以の帰結でもあったのだろう。その前後、確かに私は「シュルレアリスム演劇史」の著作があったアンリ・ベアールによる‘ブルトン伝を準備している’というインタビュー記事も読んだと思う。しかし、書店で見られるシュルレアリスム関連の新刊書の瞬く間の減少状況は単に研究が一段落した要因と見るよりも、当時のポストモダニズムやフランスの構造主義などの翻訳輸入によるブームの陰に隠れてしまった事が大きかったのではないかと感じる。(少なくとも浅田彰ブーム以降の日本では)
一般の解釈として、シュルレアリスムは運動体としては終息したが、その多大な影響が主に造形美術分野に於いて顕在化され、現代アートのその大分がシュリレアリスムの申し子的な分子であるというのが通説であったか。シュルレアリスムの核であろう現代詩、思想は生きた主体、運動体足り得ず、むしろダリやミロ、デュシャンなどの造形作家が語られる時、‘かつてこのアーティストはシュルレアリスムグループに属し・・・・’という経歴で回顧される時にそのアイコンが蘇る美術上の一ジャンルと化してしまっていたのだろう。従って運動体、あるいは思想的な前衛的立場を失ったのだから新しいインパクトたるテキストは生まれようもないという私たちの捉え方はここに由来しているものであった。それはもはや文学界や美術分野の主に大学内の研究機関における歴史的検証の対象となっており、生きたムーブメントではなくなっていたのだ。

より厳密に言えば運動体として終息した60年代後半から過去回顧としての検証、その現在的意義という立証が開始され、その余韻が80年代後半までは継続したという事だろうか。
そんな90年代以降、シュルレアリスム関連の書物が新刊書として登場する機会が一気に減った状況の中、「アンドレ・ブルトン伝」は登場した。‘遂に出たか。しかしもう遅いわい’と思った私は過去、熱狂的にブルトンやトリスタン・ツアラ、アントナン・アルトーを追いかけた頃、それこそ、存在する全ての関連書籍を購買し、のみならず、古本屋で、絶版となった書籍を常時、探索、発見しては買い求め、テクストや批評に没頭していた80年代の自分を追想しながら、やや冷めた面持ちでその「ブルトン伝」に接したと思う。

しかし「アンドレ・ブルトン伝」が出版されたその97年と言えば、全盛を誇ったポストモダニズムさえも衰退し、その批判の契機となった「知の欺瞞-ポストモダン思想における科学の濫用 」(アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン)が出版された年と同じである事が私には偶然とは思えない何か象徴的な一致とみる。それが邦訳された時、ドウルーズやガタリ、ボードリヤール、デリダなどのスターが相対化され、それまでのポストモダンが絶対視される状況に異変が起こった。90年代後半以降の大ざっぱにいえば‘思想に代わる社会学の主流’という新しい状況の契機はポストモダンの凋落から始まったと言えるのではないか。
私見によるが当時、日本でポストモダンという時代をある意味、先導した浅田彰唱導の‘逃走’というキーワードはその後、日本ではつまるところ観念左翼主義のソフト定着的蔓延をもたらし、あらゆる解釈学、分析主義の姿勢をもって知的優位を保持するという態度を生んだと思う。フェリックスガタリの「分子革命」に代表されるような’諸問題をミクロ的に暴きだし’、もはやパラノイア的に批判を永久運動化してゆく‘批判のための批判’という態度にもニヒリズムを感じていたし、更には理論をある種の詩的快楽という次元に移行するような高尚的態度と言おうか、今思えば殆ど暗号文書としか思えないような‘いたずらに超難解’な蓮實重彦などが‘快楽的に読まれた’のもその一端である気がする。いずれにしてもそれらは‘冷戦という平時’における日本の‘一国繁栄’時代の隙間に於ける観念遊戯の許容されたムードの為せる業だったのではないかと今、感じる。ただ、今でこそ小谷野敦などの‘ポストモダン=インチキ’なる確信説も堂々とまかり通るようになった現在に比べ、私(達)は当時、それを自らの知的水準の低さを前提にした摂取の意識でポストモダンを許容していたように思う。そこに疑問を感じつつも、批判の拠点を構築できなかった。しかしフランス知識人のような‘アンガージュ’しようにもできない日本の状況を国の安全保障を全面的に外国(米)に委ねているというリアルな事実に由縁する‘真に切迫した状況の不在’を起点とする事から説明する言説は日本のポストモダン論壇からはついに聞かれなかったと当時、思っていた。湾岸戦争当時に柄谷行人が発起人となった‘文学者達の戦争反対アピール’の影響力や話題性の少なさはその事に通じる一つの現実を見せてくれたと思っている。



フランスの戦後思想史での実存主義、構造主義、ポスト構造主義、ポストモダニズムという大雑把な流れの中で、シュルレアリスムがその前段階的位置というポジションにあったという解釈はなされていない。68年のパリ5月革命でのシュルレアリスムの影響に関する文章を以前、読んだ記憶があるが、そんな記述はかなり限定的であったと思う。当時の私の関心はシュルレアリスムという過去の運動が現在の知識人や政治にコミットする志向が強いアーティスト達にどのような影響を与えているかという事だったのだが、方々の資料、テクストをあたってもその‘成果’は希少だったのが実感であった。つまるところ、シュルレアリスムは思想というより文学、芸術の運動と認識されていたわけだが、サルトル以降、フランス産の‘流行’思想家達のシュルレアリスムに関する言説もかなり限定的なもので、その影響を否定する雰囲気は否めなかったと感じる。(同時代における最大の強者で'傍系'のバタイユの影響は誰しもが自認していたと言うのに)

その意味で岩波書店の月刊「思想」(2012年10月号「シュルレアリスムの思想」)に掲載されたシュルレアリスムの最新の研究は私にとって大変、興味深いものであった。そこでは私の関心事であったポストモダン思想におけるシュルレアリスムの影響というテーマに沿った論考が多く見られ、ブルトンのアンガージュの軌跡がアナーキズムとの関連性で志向されるテキストやシュルレアリスム芸術の表現手法の核であったオートマティズムに関する以前までの自動筆記という即興性を神聖化する定説への反証が図られる評論も斬新であった。この号の執筆陣は著名な松浦寿輝以外全て私と同世代もしくは若い研究者であり、私の知らない間にシュルレアリスム研究のいわば第二幕が開かれていたという感触を得たのだが、更に確信したのは若い世代によるシュルレアリスム検証はポストモダンの受容を通過した世代独特の観点が築かれていた事と逆にそれをいやがおうにも意識せざるを得ないという煩悶も存在するという意味で世代的な共通感覚を私は確かめる事ができたのだ。しかし何よりも新しい研究が存在していたという事実そのものの方が私にとっては驚きであったというのが正直な感想で、この「思想」(2012年10月号)に収められた「抵抗するフィギュール(思想史のなかのシュルレアリスム)」の論者である鈴木雅雄という私と同じ年齢の研究者による著作(『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』『ゲラシム・ルカ ノン=オイディプスの戦略』 (シュルレアリスムの25時) 『マクシム・アレクサンドル―夢の可能性、回心の不可能性』 (シュルレアリスムの25時) が2000年代後半に出版されていた事も私は気付かず、スルーしていた。正に知らぬは私だけという感じだったのだ。決して関心を失っていたのではないが、おそらく書店のコーナーで以前のように目立つ所におかれなくなっていたというシュルレアリズムの現在的需要の減少の表れではなかったかという勝手な推測をしている。

嘗て私がシュルレアリスムの現在に対する思想的影響という観点に妙にこだわっていたのは、シュルレアリストの多くが思想と現実の狭間における苦悩を引きずり、理想と直接行動との未解決な命題を抱えながら格闘していたという事実があり、自己矛盾を裡に抱えるように理想と現実の中間で自らが生み出す作品よりも‘思想’そのものに苦しんだ実態を様々な媒体で読んだからなのだ。私が読んだシュルレアリスムとは詩や文学、美術のムーブメントというにはあまりにも思想的、政治的なものに映っていた。従って60年代後期のミシェル・フーコーなどがデモでメガホンを使って絶叫する写真に私はブルトンの後継という幻想や知識人の行動の系譜を見出し、ますます、シュルレアリスムの現代的影響に関する論点を期待していた。ただ、そんな記述はなかったのだ。

しかしシュルレアリスム、アンドレ・ブルトンをおいて他のだれが知識人の現実的闘争というテーマを深く思考し探求した運動、人物がいるであろうか。それは第二次大戦中、ナチスに対する自由主義(共産主義という鎧を着た)による抵抗というあの‘正義’が一つしかなかった状況下で盟友、ルイアラゴン、ポールエリュアール達と決別し、猛批判を浴びながらもレジスタンス運動に加わらず、芸術、思想のイデオロギーへの従属を拒否するという一貫性を保持する先見性を示す事で逆に名誉を剥奪されるという途方もない犠牲も厭わなかった精神に裏付けされるものだ。スターリンが希望の星に見えた数多の欧州知識人(及びそれらを直輸入した我が国の知識人)の盲目さは後の現実による手痛い実証で明らかになるのだが、実はそれでも延命するソビエトの存在の影響はその後の現代思想の確実なる一本の幹を形成したのではなかったのか。

いや、私は現代思想の話をするつもりはなかった。80年代からの10年間の書店に於けるシュルレアリスム関連書籍のフェイドアウトがポストモダニズム関連書籍のフェイドインと交差していた風景を思い起こしただけの事であった。ただ、今となって感じるのはシュルレアリスムにしてもポストモダニズムにしてもいずれにせよ、我が国においてそれらはバブル期のソフト左翼主義の蔓延の発端の一翼を担う一つの契機ではなかったかという事である。経済的繁栄は革命の理由を遠ざけ、ミクロな左翼主義を意識に持つ現状肯定を前提とした‘反対派というニュートラル意識’の醸成を促した。ポストモダニズムがバブルと波長を合致させ、むしろ消費という快楽主義による隠微な反体制意識を底辺に潜在化させる事に一躍買ったのは‘闘争ならぬ逃走’という態度の表れであったし、イデオロギーに奉仕するアートを批判しながら(ソ連型プロレアタリズムの否定)その‘現実行動’の尺度をめぐって試行錯誤に身悶えしながら、結局はアナーキズムという理想主義的非行動性に落ち着いていくシュルレアリスム(日本のシュルレアリスムはそもそも最初から非政治的だった)もまた、現状を追認するしかない観念的過激主義に陥らざるを得ない宿命を帯びていた。

前置きが長くなった。
「アンドレブルトン伝」が97年にリリースされた時の‘遅すぎるわい’感を思い出したのも、そこから様々な出来事や雑感を述べ過ぎたのもひとえに今回のバンジャマン・ペレの初リリースが正に‘遅すぎた’為だった。
ペレの「サン=ジェルマン大通り一二五番地で」は彼の短編集のアンソロジーである。翻訳は先述した現在の先端的研究者と言える鈴木雅雄氏である。本の帯に<シュルレアリスムの重鎮。本邦初!待望の翻訳書>とあるが、私にとっても正に待望であり、ペレの人物像をまとまった解説で読みたいともずっと思っていたので、巻末に掲載された訳者による70ページに渡る解説も興味深いテクストであった。シュルレアリスム発足時からのメンバーであり、メンバーの離反やブルトンによる‘粛清’の連続であったグループ内にあって一貫して唯、一人、ブルトンの同伴者でもあったバンジャマン・ペレはブルトン、ポールエリュアール、トリスタン・ツアラ、アントナン・アルトーらの陰に隠れ、詩人としての評価は定まっていないという説があったが、レジスタンス詩人を中傷、批判した「詩人の不名誉」なるパンフレットや<司祭を罵倒するバンジャマン・ペレ>という但し書きがついた有名な写真が私に強い印象を与えていた。それらはいずれも攻撃的性格に満ちており、ある意味、ペレの本質をその作品以上に伝えるものとしてシュルレアリスムに接する者に絶対的なイメージを与えてきた。本の帯にあるもう一つのコピー<詩人であり、同時に革命家、活動家でもあったブルトンと並ぶシュルレアリスム理念の体現者>が正にペレの人となりを言い当てているのは、ペレが作品と名を‘残す’事に対する執着よりも生活者としての経済的切迫感や嫌悪する対象に対する直接抗議性が常に勝り、より生に密着したテーマを抱え込んでいたというのが本質に近いからだ。<シュルレアリスム理念の体現者>とあるがシュルレアリスムが常に信条としたのは革命的意志と行動力学であり、作品至上主義ではなかった事を想起されたい。私が先ほど、ポストモダニズムを巡る雑感で最も論点に据えたかったのも、アーティストや言論人、知識人の思想と行動の乖離に関する事だったのだが、まとまらない雑文になったきらいはあるが、その点についてのあまりにも単刀直入な明確さを持つシュルレアリスムの切れ味が今なお、魅力あるものとして、いや、今だから逆に光を持つものとして映るのである。その意味でバンジャマン・ペレこそはその最も忠実なモデルに相応しい人物であろう。訳者による解説(タイトルは「バンジャマン・ペレの文学的ならざる軌跡)とある)に在る一つのエピソードを紹介する。ペレはスペイン内戦が始まって僅か2週目でスペインに入り、戦闘に参加しているが、<義勇兵を志願したイギリスの作家たちのように、自らの体験を文章にしようと思ってもいいではないか。だが、ペレには、まるで自らの体験を言語化して表現し、伝達したいという欲望が欠けているかのようだ。> つまりペレはスペイン内戦でファシスト陣営と戦ったというこれ以上ない‘正義’の体験をしていながら、それを表現に直結させる事に関心を示さなかったのである。自己正当化を図るべく戦闘体験を作品化するといった文化人特有の英雄気取りのかけらも見せる事がなかった。
更に訳者は書く。<政治活動におけるきわめて強靭な意志を持った行為者としてのペレと、言語活動を拘束するさまざまな約定を軽やかに潜り抜けていく詩人としての彼を通低する、この奇妙な「どうでもよさ」について語らなくてはならない。社会的な出来事であれ恋愛などの個人的な出来事であれ、刺激があればそれに鋭く反応はする。だが経験に永続的な表現を与える事には関心を示さずに、やがてその刺激を忘れ去ってしまうような主体、それでいて‘作品のような何か’(傍点 訳者)を常に生み出してしまう主体とはいったいどのような論理に従った主体なのだろう。>
訳者の探求も、つまるところバンジャマン・ペレを作家などではなく<'作品のような何か'を書いている主体>という前提の元に考察を行っている。まるでバンジャマン・ペレとはもはや生態学的考察の対象となっているかのような書かれ方であるが、そこで思い出させるのはアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」に於いてシュルレアリスムの先駆と位置付けた諸々の作家、ランボー、ロートレアモン、アポリネール、ジャリ等を列記しながらジャック・バシェという作家でも活動家でもない人物をその先駆的存在としてあげていた事であろう。バシェはブルトンに強力なインスピレーションを与えた人物として、シュルレアリスムの歴史に名をとどめているが、グループの殆ど誰にもその存在を知られていないブルトンの単なる旧友である。私はバシェの「戦場からの手紙」をかつて読んだが、厭世的雰囲気だけが伝わるその文章にシュルレアリスム的なものを何も感じなかった事を記憶している。ジャック・バシェなる人物がなぜ、シュルレアリストなのだという疑問はそれを読む者だれしもが思ったのではないか。ブルトンはシュルレアリスムが何かという事の本質に‘人間の存在性’という抽象的なものに充分、重きを置く志向性を忘れてはいないのだろう。シュルレアリスム的精神の体現者というのはその基準なるものに作品性を最大要素に置くものではない。何が重要か、何を持って意義とするかという事に関してシュルレアリスムは独特の価値基準を持っている事は間違いない。ペレが世間的には知名度が低く、経済的困窮が終生付きまとった人物だったとしてもグループ内では確かな存在性を示し、ある種の畏怖を持って接せられたのは、ペレの行動的詩人たる資質の非=作家性ゆえの存在感や、司祭を見つけると、即、罵詈雑言を浴びせかけるというような直栽な人間性によってなのかもしれない。

さてバンジャマンペレの「サン=ジェルマン大通り一二五番地で」は大変、楽しめる作品であった。帯には<短編(コント)集>とあるが、このユーモラスで毒のある独特の文体はスピード感にあふれ、飽きさせない。しかも独特の演劇シナリオのような味わいもある。

「旅館「空飛ぶお尻」亭」という稿を少しだけ抜粋する。
<私ことバンジャマン・ペレは、以下の文章が私自身の口述により、前半は愛の営みの前に、後半はあとに書き取られたものであることを証明いたします。
1. 使用前
野性的な睾丸を持った男が、最初の結婚以来とどまっていた木の上から降りてきた。
彼の両手にはそれぞれ性器が握りしめられていたが、そこから無数の幼虫が這い出てくると、飛び上がって大きな青い花に止まった。(以下略)
2. 使用後
絨毯売りは旅館の前で立ち止まって言った。「新鮮な女の子に真っ白い男の子だよ!買っていかないかい、さあどうだ」
鱗の臑をした男は片手を頭に置いて、長い眠りから覚めた。植物が立って歩き、歩きながら愛を営む国から連れてきた黒人女と、今まで眠っていたのだ。彼は拳銃を取り出すと絨毯売りに発砲したが、商人はそれを見越していて、まるで亀のようにペタンと腹ばいになった。(以下略)>

訳者をして‘作品のような何か’と言わしめたペレの‘作品’の神髄は果たして不条理であったか。しかし例えば‘不条理の元祖’アルフレッド・ジャリのような高尚なアナーキーやアルトーのようなメッセージ色ある呪詛、あるいはトリスタン・ツアラの「近似的人間」などの難解で高次元なテクストとの違いは明白だろう。
ペレの作風はある意味、中庸なのだ。分かりやすく、思考に頼らなくとも体感できるような文章がここにある。シュルレアリスム特有の言葉のイメージの力、何かを喚起させ、他のイメージに結び付けるようなマジックは勿論ある。ただ、そんな錬金術的作用としての言語の力を信望したシュルレアリストの中でペレの掟破りのようなポップな感触は異質であり、もはや現在的でもあるだろう。ここでの大衆性に通じるような直截なセンスには作家性という個人の思想を無理に押し出さず、ギャグ的な没個性の空間に自分を投げ出すような潔いテクストを見出す事ができる。私はペレの文体に快楽主義、あるいはビートミュージック的なリズムの波動を感じるかもしれない。

訳者解説によると<ペレは詩人、作家として名声を確立し、一定の生活水準を手にすることなど生涯に渡って一度もなく、いつでも衣食住の問題を抱えていた>という事であり、<詩やコントに食材が多く現れるのは、書く本人が空腹だったからではないか(以下略)>と推測されている。もはや面白人間の扱われ方だ。シュルレアリスムの画家、イブ・タンギーを訪ねたときのエピソードでは<タンギーと合流したはいいが、村の陰鬱な雰囲気に一同が滅入っていたタイミングで、一人の司祭が通りかかる。すると瞬時にペレの怒りが爆発し、罵りの言葉が矢継ぎ早に繰り出されるのであった。これが騒ぎの元となってタンギー夫妻は村にいられなくなってしまうのだが、(以下略)>

ペレが机に向かって一心に書きものをしている姿を私は想像できない。先ほど紹介した‘旅館「空飛ぶお尻」亭’は自身が‘SEXの前と後に書いた事を証明します’といった妙な但し書きがついているが、何か書くことの神髄めいた意義が認められない。まるで何かのついでのような、生活の底辺そのものの中から書いている。しかし解説によればペレの書いたものは膨大な量にもなり、フランスでは‘バンジャマン・ペレ友の会’なる身内的な団体によって全集も刊行されているのだ。ペレは多作であり、書くことを生活としたれっきとした作家であった。ただ、その態度がいかにも精神的な思索家然としたただずまいを見せることなく、ペレの場合、まるで用を足すような感覚で文章を書き連ねていく。その多作主義は呼吸的、あるいは排泄的と言えば大げさか。ポップミュージックシーンでは‘糞のように作品を垂れ流す‘というフランクザッパや手持ちの音源を手当たり次第にダブ処理して作品を放出し続けるリーペリーがいるが、ペレの言語活動もそのような放射性に満ちているか。いずれにしてもペレのその全貌を私達は未だ望めない訳だが、訳者、鈴木雅雄氏によればペレの文体考察が一定の成果を得ていることも報告している。それはジャクリーヌ・シェニウー・ジャンドロン(シュルレアリスム研究の文字通り‘第二幕’を切り開いたとされる論者)による「シュルレアリスムと小説」という著作におけるペレの長編「ポリ公と戦場に死を!」を批評した論説におけるものであるようだが、ここではその要旨を記さないが、全集は無理としても、他の作品に関しても早期翻訳を希望したいところである。併せて先述した鈴木雅雄氏の著作を私は以後、読む必要に駆られている。

2014.2.4
   


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