満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

突然段ボール 『純粋で率直な思い出』

2008-02-25 | 新規投稿
 
私はCDをよく買うがよく売る。好きなバンドだからと言って容赦はしない。熟考の末、聴かないと判断したものは、所有しないのが私の主義なのだ。コレクション癖は全くない。なのに私の妻などは、そこをどうも勘違いしているようで、「なんでこんなに集めてるの?」等と、のたまいやがるのだ。解ってないのだ。私はCDを集めているわけではない。音源を買い、聴く事は私の不可分な栄養補給なのだ。これを絶つわけにはいかないのだ。しかも、少しでも量を減らし、質を高めようとしている私の努力を何だと思っているのだ。1枚のCDを売るのに、熟考を重ね、苦渋の決断をして、売り払う時も多々あるのだ。それが解らんのか。全く。

突然段ボールのCDを突然、売ったのは3年前だったか。
この時も私は容赦しなかった。何枚かを残し、何枚かを売った。買ったばかりの新譜『お尋ね者』(蔦木栄一の急死後、初のアルバムだった)も売った。このバンドは大好きなので売るのは忍びなかったが、その時の私の精神状況がそれを決断させた。しかし、今、それを何となく後悔している。
今回の新作が素晴らしく、以前のアルバムを全て検証したい気になってきたからだ。特に故、蔦木栄一の歌詞をじっくり読みたいと改めて思った。売った時、私は音楽だけで判断してなかったか。

蔦木俊一のリーダーバンドとなった新生突然段ボールの二作目である『純粋で率直な思い出』は力作となった。歌詞は全て、故蔦木栄一によるものである。彼はバンドの中でまだ生き続けている。

このバンドを聴き続ける必然は何か。当初はフリクションと同じPASSレーベル所属故、偶然、聴いたに過ぎない。フリクションとはまるで対極にあったこのヘタウマバンド。しかし私は魅了された。蔦木兄弟のあまりにもカッコ悪いルックスの衝撃。「ホワイトマン」の脱力ロックの衝撃。作文のような歌詞の衝撃。全てが型破りのバンドだった。私は突然段ボールにアホらしい程の驚異感覚を見続けて、それを期待してきたのだと思う。

全く、突然段ボールを異端と呼ばずして何を異端と呼べば良いか。30年間の異端性がずっと変わっていないとはどうゆう事か。よく異端でも後から時代が追いつき、異端でなくなる事がよくある。ヘンな事も広くスタイルとして普及してゆく過程で、全然、ヘンでなくなっていく事はよくある。異端の質は時代と共にその基準が変化していくものなのだ。
しかし私達は突然段ボールを30年間聴くとき、時代が全く追いつく事ができない異端というものがここに確かにある事に気づくであろう。
あの他人に厳しいフレッドフリスとも競演し、ロルコックスヒルとは秀逸な即興演奏合作を時代を経て2作、残している。

兄、栄一亡き後、弟、俊二による突然段ボールはギタリストを加え、よりロックフォーマットになってはいる。聴き方によれば、オーソドックスだ。しかし、その発声や歌詞、表現ビジョンに、これ以上ないオリジナリティが充満する。このバンドは誠に30年以上に渡って、フォロワーを生み出さなかった。似ているバンドはただの一つもない。これぞ正真正銘の異端か。

『純粋で率直な思い出』はストレートなビートで押しまくるロック。突然で変態的、素っ頓狂な高揚感、グルーブが炸裂する。

『純粋で率直な思い出』

文節の回数 もう飽きた
文節の回数 もう飽きた
早すぎるんじゃなく 一区切りの距離が短い

率直さをかく ×3

対外的関係 もう飽きた
観察的態度 もう飽きた
感動が薄いんじゃなく 振幅の両極がつぶされてる

純粋さをかく ×3

率直な転回 もう飽きた
純粋な態度 もう飽きた
ひねくれてるんじゃなくて 過ごすのが難しいだけ

思い出をかく ×3

率直さを欠き 純粋さを欠き 思い出を欠く


アホらしいロックが生真面目に疾走する。突然段ボールにはまるで場違いのようなドライビンサウンド。私は心で叫ぶ「いけ。そうだ、いけ、いけ。いけ!」と。

2008.2.25




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