満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Cecil Taylor  『Air Above Mountains』

2009-05-06 | 祝!ブログ開設

20年ほど前、私は昭和女子大学人見記念ホールの2階席にいた。階段状の客席はかなり高く、ステージからは随分、遠い席だった。斜め後ろの席に梅津和時氏が座っていた事を覚えている。そして、はるか遠方、ステージではセシルテイラーが一人、ピアノと格闘していた。その観客を見向きもしない態度と遠い距離が尚更、その孤立感覚を強調させ、一種異様な空気が会場に張り詰めていたと思う。フルボリュームで鍵盤をたたきつけるように弾くそのインパクト。轟音のようなピアノの打音が響き渡る。周りに誰もいないかのように、一心に自分の作業に打ち込むその姿はもはや、パフォーマンスならぬ彼の内的行為の一種のようであり、業の深さを感じさせたものだ。確かに我々、観客は唖然としながらテイラーのそのピアノを‘弾きたおす’様子を見ていたのだと思う。それはもはや、鑑賞とも言えない、‘観察’であっただろう。
全て即興。MCもなし。演奏は切れ目なく延々続く。全く火の出るような演奏を一時間半ほど、やっただろうか。最後、彼はおもむろにピアノを離れ、踊りだしたのだ。ピアノの周りをグルグル回っていた。

マイルスデイビスがセシルテイラーのことをただ、‘音符をたくさん弾く’と評していた事にずっと引っかかりを持っていた。そのマイルスの口ぶりからはテイラーの‘フリージャズ’や‘即興の革新’という評価軸を認めていないような感触があったのだ。フリージャズのフリー(自由)とは何か。かつて、それは精神の開放という形而上学めいた命題や、60年代後期という政治の季節に生じた現実の社会変革を目指す運動とリンクするものとしての‘自由’の概念とされてきた。しかしジャズのフィールドでそれを限定解釈すると、多くの場合、コードや和声、定刻リズムからの自由や逸脱のことであった。

即興演奏があらゆる音楽的制約からの自由を目指し、それは広義の人間開放につながってゆく。そんな解釈は前衛の定番として長く欧米に定着しているが、対し、マイルスは自由の体現には即興をあくまで一手段とし、音響や様式美とリンクさせる事でより接近しようとしたのだと思う。従ってその意味でマイルスにとってテイラーは西洋音楽の素養を持った演奏者に特有の‘演奏性’に支配された‘非=自由’の一連と変わらないと見做していたのかもしれない。テイラーによる音符の一斉放射のような演奏とは(単なる)西洋音楽の乗り越え(に過ぎない)と感じていたか。逆にマイルスは音の物性そのものを乗り越えの対象とし、その変容にも向かった。従って‘演奏’のカテゴリーではなく、エレクトリックやエスノに転生するフォームの変更、それは概念と快楽様式の変容に向かう方向であっただろう。嘗て故間章はそのフリージャズに対する論考で「自由という概念は対立する二つのものを含んでおり、‘・・・・・からの自由’と‘・・・・・への自由’という異なるベクトルである」と書いていた。間章に従うなら、‘・・・・・からの自由’を目指したのがテイラーで‘・・・・・への自由’を体現したのがマイルスであったか。しかし、私が実感するのは2009年という途方もない現在、その何れもが、同等に味わい深い快楽と自由を喚起させる音楽力を有しているという厳然たる事実であろうか。それはひとえに音楽に対する現在的貧困に対する生命力の共通と説明しても良いだろう。マイルスとテイラーという決して交わるベクトルを持ち得ない者同士が、‘今の耳’で均質に聴く事ができる。

セシルテイラーの即興とは果たして‘肉体’であった。ピアノにこだわり、エレクトリックへの転位を拒んだテイラーは、音響的概念を敗北と捉え、あくなき肉体的開放を己のフリージャズとした。

最近、フリージャズの重要レーベルENJAの再発物が連発している。『Air Above Mountains』はセシルテイラー絶頂期のライブ音源。全身全霊の78分。ここでもその‘弾きたおす’演奏が素晴らしい。テイラーにとってピアノとは取っ組み合いの相手なのか。多くのリスナーの意見と等しく、私はテイラー作品の中で『Indent』(73)、『Fly! Fly! Fly!』(80)等、ピアノソロ作品が好きである。初めて聴いた『Air Above Mountains』は76年、オーストリアでのライブ。ライブ音源とは思えない、その孤立の様子が伝わる。最後の僅かな拍手でやっとこれがライブ音源である事が判明する。クラッシクの都、オーストリアでテイラーは何を破壊したのか。西洋にエスノ、理性に獣性。そんな対立概念の古風をもしかし、ここでは信念を地で遂行するパフォーマーの戦慄的な姿こそを発見できるだろう。
思わず、私はあの日、ピアノの周りで踊りだしたテイラーの孤高を思い出した。

2009.5.5
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