満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Evgeny Mravinsky 『live selection 1972,1982』

2008-09-19 | 新規投稿

<冷たいまでに鋭く研ぎ澄まされた演奏は‘凄絶’の一言に尽きます。旧ソ連のあまり状態のよくない録音でしかうかがい知る事のできなかった彼等の凄さがダイレクトに伝わる衝撃の一枚です>
レニングラード・フィルを率いてイギリスに初登場したムラヴィンスキーの1960年の録音作品、『BBC LEGENDS交響曲第8番ハ短調』は私にとってのショスタコーヴィチとの出会いであり、そのCDの帯に書かれたコピー通りのインパクトを私にもたらした。
正しく凄絶。その音楽には戦慄的な美の構築と破壊のスリルがあり、冷酷なまでのリアリズムを感じたものだ。地の奥底から鳴り響く悪魔的な大音響。マイナートーンに貫かれた絶唱のような合奏。しかし、それは悲愴の表現ではない。夢や歓喜、幸福感をも裡に含んだ‘凄絶’さの暴露のようであり、ましてや嘗てソビエトでアーティスト達が半ば強制された社会主義リアリズムやプロレタリアート賛歌などの‘現実描写’とは程遠いものだ。ショスタコーヴィチの音楽とはむしろ深遠なる夢幻世界としてのリアリズム、それは超現実主義世界の表現と言って良いかもしれない。

そのダークで鋭角な音に響きから必然的にショスタコーヴィチとムラヴィンスキーの物語に関心が向かう。芸術が政治や国家の下僕として位置した旧ソビエトにおける彼等の魂の物語に。自由な表現が規制され、抑圧的な管理下に置かれる状況だからこそ生まれる表現の深み。そこには苦悩という感性のベースがまずひかれ、あらゆる感情や物語、夢さえも、苦悩の裏返しとして重複性の形が顕れるだろう。ショスタコーヴィチの神髄にそんな対立する命題の一体化、楽典上の対位法ならぬ感性の対位法を伺い知る事ができる。共産党一党独裁社会での偏向した芸術批評に翻弄され、体制迎合的な作風と自己主張の狭間の中でアンチの刃を突きつける、そんな炎を曲中に隠し持ったショスタコーヴィチの音楽思想は、しかし私達が想起する国家に抗った反体制芸術という解りやすいものではない。先日逝去した『収容所群島』の作家ソルジェニーツェンを見ればわかるが、ソ連の作家とは実に愛国精神の具現者である事が実に多い。体制批判とナショナリズムは根源的には矛盾しない。双方を併せ持つ精神の培養が彼の地の土壌にあり、乖離する理想と現実に個人の内面は引き裂かれ、時には現実的迫害も迫る。内面の苦悩は常に肉体的抑圧への延長の可能性を持ち、恐怖と希望の再生のリピート運動は果てしなく展開する。

指揮台を‘処刑台’と言ったムラヴィンスキー。
「指揮者として最も困難な事はショスタコーヴィチの交響曲初演を準備した時の‘産みの苦しみ’、障害そして抵抗」と語り、苦しみ、抵抗という言葉がその作曲家に対する特別な関係性を示唆している。音楽エリート、ムラヴィンスキーが懸命に理解しようとする作曲家の内面。スターリンによって‘不道徳’‘人民の敵’の汚名を着せられ、冷遇されたショスタコーヴィチが粛正の危険を感じて創作した‘名誉挽回’の作品だった「交響曲第5番ニ短調」の初演を指揮したムラヴィンスキーとショスタコーヴィチは共闘する同志的関係となる。

『live selection 1972,1982』はムラヴィンスキーによるショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、チャイコフスキー作品のオムニバス。ショスタコーヴィチ作品は命運を賭けた『第5番』が収録されている。「部長刑事」のテーマでお馴染みの第四楽章、ティンパニの嵐が強烈。しかも凄い速いテンポで怒濤のように打ち鳴らされる。色々聴いて解ったのは、このテンポはムラヴィンスキー特有のもの。他の指揮者、オーケストラより断然、高速である。超高速の「部長刑事」。超絶技巧の金管と弦楽が叩きつけるような重いビートを刻む。

共産党機関誌「プラウダ」に<社会主義リアリズムに則った傑作>と絶賛されたショスタコーヴィチの「交響曲第5番(革命)」。その表現の魂は偏狭な解釈を超え、普遍世界へと至る。それはもはや万民の歌。図らずも‘共産’という理想世界の具現たりえたようだ。

2008.9.19





















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