満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

渋さ知らズ 『渋響』

2007-07-13 | 新規投稿


五年前、ニューヨークでサンラアーケストラを観た時、私は渋さ知らズの事を思い、比べていた。アンサンブルの分厚さ、迫力はサンラが上だが、混沌としたエネルギー、何が起こるか分からないスリルでは渋さ知らズが勝ってると思った。いや、そんな安易な比較を咄嗟にしてしまうほど、渋さ知らズのレベルが自分にとって一つの基準になっている事を自覚したと言った方が正確だ。そのサンラはコンサートの終盤、「space is the place」の大リフレイン大会が始まるとその祝祭空間は正に渋さ知らズ的な混沌としたエネルギーに満ち、観客とステージが一体化したのである。更にコンサート終了後、路上でサンラのメンバーの何人かが、尚も「space is the place」を手拍子を打ちながら合唱しているのであった。思わず駆け寄ってノッてしまった。それは終わりのない祭りのようだった。

祭りは終わる。確実に。
しかし渋さ知らズのライブが終わった時の寂しさ、あの残念な感覚は、数多のライブコンサートでの高ぶった気分がすーっと抜けて現実に戻っていく、あの冷める感覚とは違う種類のものだ。祝祭の強度がそれを体験する者の内側に残存し、徐々に抜けていく感じ。最後には記憶として確かに<残るもの>がある。だからまた行きたくなる。実際に行く。
逆に言えば祭りの終わりを強く意識する覚悟こそが、祭りの強度を生む。思えばその最たるものがじゃがたらであった。渋さ知らズはじゃがたらを受け継ぐ存在だろう。

シャイな人間をも踊らせる吸引力が渋さ知らズにはある。実際、オタクみたいな大人しそうな奴がタコ踊りをして狂喜している姿も見たことがある。精神が解放され、勇気を持つ事への扉を開かせてくれる。アルバム『渋響(しぶき)』に収録された「we are fisherman band」で叫ばれる「エンヤートットエンヤートット」の掛け声は大漁節の高揚感を皆で共有する楽しさそのものだ。

「藤圭子は大好きでね。アルバートアイラーが好きなら聴くのは当然だよ。あと森新一の<港町ブルース>ね。」リーダー不破大輔は大所帯のバンドアンサンブルの中で日本的哀愁や情緒を高速で歌い上げる。いいメロディを繰り返し、その高揚感を表現する。渋さ知らズに感化されるノリとはココロとカラダの一体化のノリだ。批評意識旺盛な洋楽耳で音楽を感知する習慣や、踊らせる事だけが最初から目的の音響に、そのまんま踊ってしまう下半身感知が習慣付いた次元から一歩、上に出られる契機になる種類のものだ。

阿波踊りや盆踊りでもそうだが、日本の踊りが手をよく使う事には関心がある。あれは音楽のリズムは下半身、メロディは心という二分法を超えて両者は不可分に一体化していると捉えている証拠なのだと思う。沖縄のエイサーも手の動きがカッコいい。足と手がつながっているような印象がある。渋さ知らズのライブでは曲のテンポやメロディに全身を併せながら鼓動を表現するダンスが望ましい。直立揺れダンスもあるだろうし、両手をゆっくり廻す舞踏もあるだろう。渋さ知らズはに日本芸能の根源的な豊かさを想起させる。何でもオープンに感情表現するのではなく、控え目な状態から全身に鼓動が伝播するような表現方法。これが日本人的特性かもね。

2007.7.10


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« The Cinematic Orchestra ... | トップ | 美空ひばり  『ミソラヒバ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新規投稿」カテゴリの最新記事