満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

           BEATLES 『LET IT BE』

2009-12-11 | 新規投稿

2009.12.11
なぜ、親父が『LET IT BE』のカセットを持っていたのか、亡くなってしまった今となってはもうわからない。音楽の趣味はなかった筈だ。ただ、物をやたら、溜め込む習性があったので、多分、もらったものを無意味に置いていただけだったのかもしれない。家に横型のカセットテレコがあった。デジタル時計ならぬパラパラと自働にめくれる時計が付いていたすごい旧式のラジカセだ。親父がいない時、私はこのラジカセで、いつも気なっていた『LET IT BE』をこっそり聴いた。私のビートルズ初体験であり、洋楽を聴いた最初だった。しかしその感想を今でも覚えている。それは‘ジャムセッション的’な曲(「maggie mae」「dig it」「dig a pony」「for you blue」「one after 909」「get back」等)と‘練られた楽曲’(「let it be」「I me mine」「the long and winding road」「 across the universe」)との極端な相違であった。もちろんロックもブルースも聴いたことがない子供にとって、メロディアスで荘厳な響きを持つ「let it be」や「winding road」に何か感じるものがあり、ロック色が強く、歌としての要素が薄い「get back」等にまだ、感覚がついていけなかった事は否めない。ただ、「maggie may」の何ともイージーな歌が厳粛性の極みのような「let it be」の直後に始まるギャップとアンバランスに、そこに何かしらの‘分裂’を感じ、私はグループ内の亀裂すらイメージしていた。まだこの時点でビートルズの何かも知らず、これがラストアルバムであり、音楽の方向性の違いや、マネージメントのトラブルに端を発することが元で対立し、解散した事を後で知ったが、アルバム『LET IT BE』の持つ末期的なムードは年端もいかぬ子供であった私にもさえ、感知できる作品の本質を表していたのかもしれない。

私がビートルズ狂と化すのは小6の時、親父の横型のラジカセをゲットした時からである。テレビを観ることを制限されていた私はラジオにはまり込んだ。AMのヤンタン、ヤンリク、「FMレコパル」に赤鉛筆で印をつけて、ビートオンプラザ、カモンポップス、シリアポールのポップスベストテンetc・・・・色んな番組を聴いて私は音楽に熱中した。そして様々な洋楽、邦楽を聴く中、突出した楽曲性を持つビートルズが特別な存在として私のフェイバリットになっていく。鈴木ヒロミツがパーソナリティを務めたラジオ番組「ビートルズ大全集」が始まったのは中2の時だったと思うが、その頃、既にビートルズ博士となっていた私は番組の中のビートルズクイズのコーナーに一喜一憂するミーハーと化していた。
勿論、レコードを多く買える歳ではない。私のメインリスニングはラジオであり、エアチェックである。押すのが信じられないくらい固いRECボタンを再生ボタンと二つ同時にガチャっと押す。PAUSEボタンはまだなかった。カセットテープすらそんなに買えないので、曲が埋まれば、泣く泣く録った上からまた、録る。消してはいけないものは、爪を折る。従って年に3枚ほど、買うレコードは熟考の末、買ったもので私は買った日付けをジャケットに書き入れて、宝物のように愛着を持っていた。盤が擦り切れて傷ができるまで飽くことなく聴いていた。赤ベストが最初に買ったLPで、順番に後期の作品を揃えたと思う。『LET IT BE』のLPには1977.7.とある。例のカセットがあったので、後回しになったのだろう。

ビートルズソングの多くを私は頭の中で演奏も歌詞も鳴らすことができる。かつて、その熱中ぶりはすさまじかった。音楽の入り口がビートルズで良かったと思う。それは一つの基準であり、他のあらゆる音楽の楽曲レベルを推し測る尺度となった。ことメロディメイカーとしてのビートルズはもはや、後にも先にも唯一の存在である事は常識の筈だ。

初のデジタルリマスター音源が一大ブームとなっているビートルズ。
ボックスは要らないので1枚だけ買おうと思い、『LET IT BE』にした。しかしLPで何百回と聴いたであろうこの作品に音質が向上したからという新たな感動は実は得られなかった。私は不思議に思う。今までリマスターされず、‘最悪の音質’でしか聴けないCDしか存在しなかったというビートルズが、そんな理由でその音楽性が正当に評価されなかったというなら、それはリスナーの耳の退化である。私は‘最悪の音質’だったCDは聴いていないが、どう違うのだろう。更に言えば音質が格段に向上したという今回のCDと昔、私が愛用した横型で上にちっちゃいスピーカーが一つついただけのカセットテレコで聴くビートルズの一体、何が違うと言うのか。違わないと思う。ビートルズメロディの屹立度がそんなもので左右されるとは思わない。音楽に関する感動の感度が変質した。ビートルズメロディはプレ・デジタル時代だから生まれ得た魔法であり、だからこそ再生装置や貧弱な音質の摂取からでも、その音像が体内に蓄積され、あるビジョンが脳裏に拡がる種類のものだと考える。それは音という物質ではなく、栄養のようなものだ。デジタルによる左右の耳の円環回路を流通し、消えゆくものではなく、単線から聴覚に入り込んで拡散する夢の形成なのだとイメージする。そんなビートルズメロディとはアナログである。アナログとは全体像を入口一つで集約し、雑音や空気、バランスの悪さをも含めた音楽の部屋を提示する事だ。そこにあるのは人間主義である。声と感情である。ビートルズのメロディは音楽の感知の中心作業、その大切な本質を示す。それはリスナーを鍛える作業を促し、メロディの優劣の峻別能力を呼び覚ますだろう。

かつて『LET IT BE』に感じた分裂、末期的感覚や物悲しさは幸福感と未来を信じて疑わない無邪気な子供の私に、世の不条理や暗い面の存在を教えたようにも思う。従ってこのアルバムの荘厳な響きと共存した‘ジャムセッション的’なナンバーが佳作としてではなく、人生や世界観の縮図としてある成熟感にもイメージされる事に気つかされた。

あの『LET IT BE』のカセットはどこにいったのか。そしてテレコは。
もう一回、あの小さなアナログスピーカーの聴きとりにくいこもった音に耳を近つけて、聴き入りたい。そうすると、もっともっとビートルズのメロディの中心が姿を表すような気がする。

2009.12.11

コメント (1)
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