満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

     美空ひばり   『ひばりとシャープ 虹の彼方』         

2008-09-04 | 新規投稿

私は最近のロックやポップスのCDの音圧の高さに対し、常々、違和感を感じている。
昨今、録音される多くの音源ときたら、ボリュームを少し上げるだけで、ものすごい大きな音になる。もはやアンプの大きなつまみは不要となった。しかもその音圧の高さが音楽リスニングに良い影響を及ぼしているかと思えば、そうではない。むしろ逆である。
定位の高い音圧で聴かされる事で耳が疲れやすくなり、長時間リスニングに耐えられない。アナログ時代はLP10枚以上を連続して聴くのは当たり前だったが、今のCDではそうはいかない。‘長く聴けない’というリスニング環境は実は深刻な事態なのだ。なぜならそれは人々の音楽離れにつながるから。と言えば大げさか。いや、大げさでもない。


なぜこのような大音量の録音がまかり通るのか。それはファーストインパクト至上主義と言える昨今のセールス環境の要請によるものだと思われる。しょぼい音量の音源がオンエアやプロモーションに於いてまず劣敗として差別化される現状の性急さが、金太郎飴のような同じ物の大量生産に至り、歯止めが掛けられなくなった。過剰音圧が音質の技術進化とすり替えられ、表面的な迫力が第一義とされる。

それにしても高音域のボリュームレベルの異常な高さは、音楽のダイナミクスを損なう。そして弱拍の拡がりが消え、ミドルレンジのかたまりが壁のように存在する。この壁が実に平坦で直線的なのだ。このような環境に聴覚が慣らされると、音楽制作や演奏に於いて、音の間や微音から立ち上がる音の上昇感、下降感という感覚が失われていくのではないか。音圧が一定し、デジタル音によるシャカシャカした音楽の一律化は、聴感覚の固定化の顕れと断じる。そう言えば昨年リリースされたチャカカーンの素晴らしい新譜に対して‘音抜けが悪く、聴き辛い。エッジの効いた録音にするべきだった’との評があり、やはり私には意外であった。あのモコっとした重量感こそがソウル / ファンクなのに。

美空ひばりの『民謡お国めぐり』を初めて聴いた時の衝撃。
原信夫とシャープス&フラッツの豪快且つ繊細な演奏に驚きを禁じ得なかった。ダイナミクスの極地たる音楽の上下感と前後感をそこに発見し、演奏の中にこめる指や息の強弱や振幅の精緻を思い知らされる。そして美空ひばりの歌に至っては、一つの言葉、フレーズの中にいくつもの音階とキーがあるようで、もはや記譜不可能な細かい音の段階が混在する発声の美学を見た。正しくとんでもないレベルの音楽がそこにあった。幸いCDでもアナログの音質を限りなく再現し、その、音が急に出たり引っ込んだりするようなダイナミクスは損なわれてはいない。

私は以前、当ブログで美空ひばりのコロムビア時代のアルバムを順番にCD再発して欲しいと訴えたが、その後、僅か3アイテムだが、何とLPの限定再発があり、音楽を愛し、理解した制作だと私は感心した。今回、その中の『ひばりとシャープ 虹の彼方』がボーナス付きでCD再発され、またも買う羽目に。これも枚数限定という。

『ひばりとシャープ 虹の彼方』は1961年の作品。歌、演奏、録音、その全てが完璧。驚くべきは一発録音。しかも公会堂を借りての中継録音方式だったという。最高レベルの歌と演奏だから可能な離れ業。‘ひばりとシャープ’というタイトルが示す通り、原信夫とシャープス&フラッツは単なる歌のバックに終わってはいない。むしろここでは対等の関係が築かれている。シャープス&フラッツの演奏にある歌心は美空ひばりの歌に対抗し、両者が絡み合いながら歌世界は上昇する。そこにメロディのグルーブとも言うべき艶やかな疾走感を感じる。そして曲目はジャズのスタンダード集だが、それを感じさせない独自性を誇る。お馴染みのスタンダードがまるで日本の歌、美空ひばりの持ち歌と勘違いしそうになるほど、ここでの美空ひばりは外来の歌を自らのものとしている。和訳された歌詞がこれほど自然に感じられる例が以後、日本のジャズにあっただろうか。おそらくない。綾戸智恵でもここまでの独自性を築いているとは言えないだろう。

単純に‘ジャズを歌いたい’と希望した美空ひばりの念願のアルバム制作だったと言うが、ここでの音楽は結果的にジャズ色が希薄であるとも感じられる。『ひばりとシャープ 虹の彼方』は我々の固定観念にあるジャズアルバムとは大いに違っている。多分、それは以降の日本のジャズボーカルが、あるムードを前提に創作されたものが大半で、結果的に‘ジャズというジャンル’を歌い、演奏する事の枠をはみ出ることがないものに終始しているからだ。
美空ひばりとシャープス&フラッツが『民謡お国めぐり』に於いてハードバップ形式による日本民謡の強力な表現をなし得た事を思い返す。彼等にとって歌と演奏の形式は彼等自身の側にある。従ってジャズスタンダードを取り上げる感覚もそれはジャズという形式やジャンルではなく、あくまでも一曲、一曲を単独のソングとして対応しているのであった。いや、それはモチーフ、きっかけとすら言ってもいい。‘一小節のフレーズがあれば、そこから何時間でも演奏できる’と言ったマイルスデイビスの表現の境地に通じる感覚がこの時代、既に美空ひばりとシャープス&フラッツには備わっていたと私は解釈する。
『ひばりとシャープ 虹の彼方』にジャズ色が希薄だとする逆説めいた感想は、その後の日本の翻訳ジャズの形式主義に耳が慣らされた私の固定観念から顧みられるオリジナリティの発見によるものだった。むしろこの作品で美空ひばりとシャープス&フラッツが現した音楽こそが本来のジャズである。ジャズの本質であるアドリブ性とは即興概念のみならず、その表現拠点の強固さを問うとこらから発せられるだろう。従って『ひばりとシャープ 虹の彼方』は結果的に世界に拮抗する日本ジャズを体現する事となり、それは欧米にはない独自のジャズである。

LPに収録されなかったボーナストラックの2曲「just one of those things」、「mack the knife(匕首マック)」がまた、すごい。その演奏のド迫力に負けそうになり、思わずボリュームを気にする自分がいる。録音作品とはこうでないといけない。音が小さいピアニッシモの場面ではつまみを右へ、ドカーンと爆発して音量が上がり、大きすぎれば左へ回して下げる。音楽の聴き方は本来、こういう手作業を要するものなのだ。高音圧でパッケージされたしょぼい音楽の偽りのインパクトとは違う生きたダイナミクス。
美空ひばりとシャープス&フラッツ。絶品であろう。

2008.9.4
コメント
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