鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その3

2011-03-08 06:11:36 | Weblog
 「震災復興記念館」を出たのは9:20。中国仏教徒の寄贈による「幽冥鐘」を見た後、「震災遭難児童弔魂像」へと足を向けました。

 案内板によると、関東大震災により死亡した小学校児童は約5000人に及ぶといい、その児童たちの死を悼み、その霊を慰めるために、当時の学校長などが中心となって弔魂像建立が企画され、それが発表されるとその企画に共鳴するものが18万2027名、その醵金が1万4066円47銭に達したという。

 しかしその弔魂像も、戦時中に戦力増強の一助として金属回収の禍を受けることに。したがって現在の弔魂像は、もとのままのものではなくて、戦後になって往時のものを模して造られたものということになります。

 関東大震災で死んだ約5000人もの小学生の慰霊のために、多くの人々の醵金によって造られた弔魂像が、戦時中に、戦力増強のための金属回収事業によって供出させられたというのが、痛ましいというのか無惨と言っていいのか……。

 以上、「横網町公園」内を見て回った後、江戸東京博物館の開館時間(9:30)が迫っていることもあり、「清澄通り」に出て博物館へと向かいました。

 途中、歩道右手に「両国物語 置いてけ堀・御竹蔵跡」の案内板がありました。この辺りには、幕府の資材置き場であった御竹蔵があった、とその案内文の冒頭に記されています。

 『復元江戸情報地図』を見てみると、この「御竹蔵」は「御米蔵」となっており、現在の両国駅や江戸東京博物館、国技館の一部、横網町公園などを含む広大な敷地になっています。「横網町公園」は、その「御米蔵」(御竹蔵)の北隅に位置しています。

 御竹蔵は子どもの頃の芥川龍之介の遊び場所でした。芥川によると、現在のJR両国駅あたりは御竹蔵一帯に属していて、藪や林が生い茂っているところであったらしい。その広大な御竹蔵跡地一帯の一部(北隅)を利用して、陸軍省によって被服廠が造られ、その跡地に横網町公園が造られることになった(大正12年7月のこと)というわけです。その直後の9月1日に関東大地震が発生し、ここで多くの避難民が焼け死ぬことになりました。

 都営地下鉄大江戸線の両国駅の出入り口のところで右折し、やや歩いて江戸東京博物館内に入り、常設展のチケットを購入(600円)して、エレベーターで6階へと上がり、常設展示場内の日本橋を渡って左折。エスカレーターで5階へ下りると、左手のコーナーが「第2企画展示室」、すなわち「横山松三郎」展が行われている会場で、さっそく中へと入りました。


 続く


○参考文献
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(とんぼの本/新潮社)
・『横山松三郎』(江戸東京博物館)「近代の視覚と技術の探究者 横山松三郎」(岡塚章子)
・『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)
・『隅田川の文学』久保田淳(岩波新書/岩波書店)


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