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鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その5

2011-03-11 06:13:08 | Weblog
 企画展示の「第2章」は「時代を写す」。

 旧江戸城の撮影には写真師内田九一(くいち・1844~1875)も同行していたことが、解説からわかります。この内田九一は、当時、横山松三郎とともに卓越した技量を持つ写真師として知られていた人物。明治2年(1869年)、浅草大代地に写真館を開業しています。

 ここには『旧江戸城写真帖』の写真10枚とそのネガなどが展示されていました。写真は、横山の撮影によるコロディオン湿板のネガから焼き付けられた鶏卵紙に、絵師の高橋由一(1828~1894・近代日本洋画の最初期の画家)が彩色を施したもの。

 蜷川式胤による『観古図説 城郭之部』も(横山が撮影した写真の中から73枚を選び、蜷川が解説したもの)も興味深いものでした。

 この明治4年3月に旧江戸城を撮影した松三郎は、翌明治5年(1872年)に行われた社寺宝物調査に、文部省の町田久成に蜷川式胤らとともに同行しています。そして写真師として、近畿地方の古社寺や古器旧物の撮影を行っています。この調査のことを「壬申検査」といい、明治5年の5月から10月にかけて行われたという。解説によると、この調査の中で、一番多く調査の時間が割かれたのは奈良東大寺の正倉院。

 当時の撮影に使用されていたコロディオン湿技法は感度が低く、またレンズも暗かったため、宝物は屋外に運び出され太陽光の下で撮影されたとのこと。

 岡部章子さんによれば、蜷川が宝物調査のために東京を出立したのは明治5年5月27日。京都御所の撮影を行ったのが7月1日。正倉院の調査は8月12日に始められ、同月20日に終了しています。ほかに、広隆寺、神護寺、高山寺、信貴山寺、東大寺、法隆寺、春日大社、東大寺手向山神社、京都御所、桂離宮、伊勢神宮、熱田神宮などを撮影しているから、この調査は、愛知・三重・京都・奈良の範囲に及ぶかなり大がかりな調査であったことがわかります。蜷川が東京に帰着したのは同年10月20日のことでした。

 岡部さんの論文には、正倉院での写真撮影に関する興味深いエピソードが紹介されています。

 それは、正倉院御物のうち七弦琴を写真撮影するために、それを外に出したところ(室内では撮影困難のため)、その表面の漆が日に当たってはねあがってしまい、それを知った宮内省の世古延世というものが立腹し、文部省の内田正雄がその修復を命じたというもの。

 写真撮影からの必要上、太陽光線の下に運び出したところが、乾燥して七弦琴の表面に塗られていた漆がはねあがってしまったということで、撮影した当の横山松三郎も思わぬ事態に困惑したであろうと思われます。

 「壬申調査」に、蜷川式胤から写真師として同行を命ぜられたということは、それほどに蜷川からの信頼が厚かったということを示しているでしょう。

 その表面の漆が、太陽光のもとではねあがってしまったというエピソードを持つ、「正倉院御物 琴・琵琶」を写した写真も展示されていました。

 このように、横山松三郎が蜷川式胤らに同行し、「壬申検査」として明治5年、愛知・三重・京都・奈良など広範囲におよぶ地域の社寺や宝物などの撮影に従事していることは、この企画展を見るまでは知らなかったことでした。


 続く


○参考文献
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(とんぼの本/新潮社)
・『横山松三郎』(企画展カタログ・江戸東京博物館)岡塚章子氏論文


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