鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その1

2011-03-06 07:29:37 | Weblog
 JR総武線の両国駅に到着したのは、8:30頃。まだ開館には間があると思いつつ、着物を着た若い力士の二人連れを追い抜いて、駅前を右手方向へと進み、江戸東京博物館の入口へと続く通りへと入っていきました。

 街路灯には、「横山松三郎」と記されたポスターが掛かっており、それには「会場:常設展示室5階 第2企画展示室」とある。それで企画展会場を確認しました。副題には「企画展 140年前の江戸城を撮った男」とあります。

 開館時間は9:30。まだ50分ほどあるので、いつものように近辺を歩いてみることに。

 江戸東京博物館の前を過ぎると、右手に「両国ポンプ所」がありました。まだ新しい施設のようで、このあたり一帯の排水を行っているようです。

 前方に、やや古色を帯びたコンクリート造りの三重塔のような建物が見えたので、気になってそちらの方へと歩道を進み、出た通りの角にあった町名表示を見ると「墨田区横網一丁目10」とありました。このあたりが「横網」であったのです。

 そこで左折し、すぐの横断歩道を右折して渡ると、「横網町公園」と記された案内マップが立っており、そこは「東京都立横網町公園」であり、その中に「復興記念館」があることを知りました。また古色を帯びたコンクリート造りの三重塔は、「慰霊堂」の一部であることを知りました。

 江戸東京博物館の近くに、関東大震災や空襲による復興を記念した施設があるということは知っていましたが、この三重塔(慰霊堂の一部)が建っているところが都立公園(横網町公園)となっており、そしてその公園内に「復興記念館」があることは、ここに来る今の今まで知りませんでした。

 さらにマップを見てみると、公園内には「朝鮮人犠牲者」の追悼碑や、「東京空襲犠牲者」の追悼碑、また「震災遭難児弔魂像」があることを知りました。

 ということで、さっそく公園内に入ってみることに。

 慰霊堂の一部である三重塔の背後を見て左手へ進むと、庭園があり、その一画に黒御影石に「追悼」という文字が彫られた石碑があって、その「追悼」の文字の下に「関東大震災朝鮮人犠牲者」という文字が小さく刻まれています。

 そして左手の石碑には、次のように刻まれていました。

 「一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため、六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本と朝鮮両民族の親善の力となることを期待します。 一九七三年九月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」

 そこから「復興記念館」の方へと進んでいくと、大きな扇型の花壇のようにも見える施設がありましたが、これが「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」でした。「碑面を覆う花は生命を象徴し」、また碑の内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められているという。

 「慰霊堂」の正面には、「震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記」という案内板があり、それによれば、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により東京市の大半は焦土と化し、5万8千余人もの市民が業火の犠牲となりました。そのうち最も惨禍をきわめたのは、当時、横網町公園として工事中の陸軍被服廠の跡地でした。ふたたびこのような惨禍のないことを祈念して、昭和5年(1930年)9月に竣工したのが、この「震災記念堂」。この堂は、慰霊納骨堂であるとともに、警告記念として、また公共慰霊の道場として設計されたものだという。三重塔の高さは約41m。基部は納骨堂として5万8千余人の霊を奉祀しているとのこと。

 東京の空襲においては10万を超える人々が犠牲となりましたが、特に戦禍の激しかったのは昭和20年(1945年)3月10日の大空襲であり、約7万7千余もの人々が犠牲者となりました。当時、殉難者は公園その他130ヶ所に仮埋葬され、戦後の昭和23年(1948年)より逐次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安。昭和26年(1951年)の春をもって、戦災者整葬事業は完了をみたとのこと。

 つまり、ここはもともとは陸軍被服廠があったところであり、その跡地に「横網町公園」を建設している最中に関東大震災が発生して、そこへ逃げ場を求めて集まってきた多くの人々が焼け死んだところであるらしいということがわかってきました。さらに東京大空襲の時には、この横網町公園も、空襲による多数の犠牲者が仮埋葬された公園の一つであるようです。

 関東大震災による多数の犠牲者の慰霊納骨堂であった「震災記念堂」が、東京空襲による多数の犠牲者の慰霊納骨堂をも兼ねるものとなった経緯のあらましを、この案内板の記述から知ることができました。

 この「震災記念堂」が建設されたのは昭和5年(1930年)のことだから、80年余の歴史を経ていることになる。

 コンクリートの三重塔が、現在のまわりの景観とは異質のやや古色を帯びた雰囲気を漂わせていたのは、そうしてみると無理なからぬことです。

 同じくやはりレトロな雰囲気を醸し出している建物は、公園の北東隅にある「復興記念館」。これは「震災記念堂」(現慰霊堂)の附帯施設として建てられたもので、竣工したのは昭和6年(1931年)。2階建ての建物を横から見ようと建物の左横へと回ってみると、そこの広場には黒々とした金属製のガラクタのようなものがあちこちに置かれてあり、思わず目を剥いてしまいました。


 続く


○参考文献
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(とんぼの本/新潮社)


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