鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その4

2011-03-10 06:13:31 | Weblog
 企画展の第Ⅰ章は、「写真術開眼」。それによると箱館で写真に興味を持った松三郎は、文久2年(1862年)より横浜で開業していた写真師、下岡蓮杖に教えを受けるなどして写真術を習得。慶応4年(1868年)には、東京に出て、両国に写真館を開業。そしてまもなく上野池之端仲町に移って、営業写真館「通天楼」を開業しています。

 そこで使用されていた写真技法は、「コロディオン湿板法」というもので、ガラス板に感光乳剤を引き、それが乾かないうちに撮影、現像を行うもの。したがって撮影時には、暗室を含めた大掛かりな機材、薬品を現場に持ち込む必要があったという。

 慶応4年に撮影された「西田耕平像」という肖像写真がありますが、これは「男性像(大紋姿の男)」と同一人物であると思われます。また「鈴木能婦(のぶ)像」という婦人を写した写真もあって、これには「後西耕平の妻となる」と記されています。「西耕平」とは、「西田耕平」のことと思われるから、「西田耕平」や「鈴木能婦」という女性のことを、松三郎はよく知っていたものと思われる。

 松三郎は、肖像写真を「通天楼」のスタジオで写す以外に、風景写真も写しています。それがわかるのが、日光を写した写真群。撮影旅行に出かけたのは明治2年(1869年)のこと。門人とともに出かけ、中禅寺湖や華厳の滝、東照宮などを撮影しています。

 岡塚章子さんによれば、横山松三郎に日光撮影を勧めたのは、彼の師である下岡蓮杖。蓮杖が資金500円を出し、松三郎が100円を出し、「山中に留ること半歳」を撮影したらしい。日光撮影の便宜をはかったのは、日光東照宮の留守居書役の片岡久米という人物。横山に出会って写真に興味を持った片岡久米は、横山から写真術を習得し、日光に写真館を開業。その後、松三郎から「松」の字をもらって、片岡如松(じょしょう)と改名し、日光を代表する写真家となった、という。

 日光を撮影した時、松三郎が滞在した旅館は、下鉢石町にあった紙半旅館で、そこで松三郎は経営者である福田半兵衛の娘「蝶(ちょう)」と知り合い、その「蝶」を妻にすることになる。

 彼が写した日光の写真は、「記録としての写真の最も早い撮影」であるとのこと。

 この写真群で、興味深かったのは、松三郎をはじめとして写真撮影にあたったスタッフの仕事のようすが写されていること。滝の全景を写すために、大樹に縄を縛りつけ、その縄の一端を松三郎の体に巻きつけて、大型カメラを背負った松三郎を、人夫たちが縄をゆるゆると谷底へとおろし、そこから滝を撮影するといったこともあったようだ。

 「日光撮影の様子(瀧の撮影)」や「日光撮影の様子(岩の上に立って帽子をふる横山松三郎」)といった写真は、そのことを示すもの。別の写真には、「携帯式暗室」も写っています。

 多くの人夫たちを使役し、多数の重い器材を運ばなければならない、当時の写真撮影がいかに大変だったかを、この一連の写真群からうかがい知ることができます。

 谷底の岩の上に立って、丸い帽子を頭の上で振っている松三郎は、当時31歳。その一瞬が写し撮られているのが面白い。


 続く


○参考文献
・『幕末・明治の東京─横山松三郎を中心に─』東京都写真美術館編集(財団法人東京都文化振興会)
・『横山松三郎』(江戸東京博物館)「近代の視覚と技術の探究者 横山松三郎」(岡塚章子)


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